特定秘密保護法の強行制定や集団的自衛権の行使容認など、安倍政権のもとで「戦争する国」づくりが急速に進んでいます。「戦争する国」づくりが進めば、やがて言論表現の自由は抑圧され、映画にも様々な規制がかけられるでしょう。
 映画人九条の会は2006年3月8日、映画評論家で映画人九条の会代表委員のお一人でもあった山田和夫さん(故人)を講師にお招きし、「大日本帝国憲法」下の戦前、戦中、映画人はどのような状況におかれていたのか、昭和14年(1939年)に施行され「映画法」のもとで映画や映画人はどのような苦しみを味わわされたのかなど、「映画が自由でなかったとき」のことをじっくりと語ってもらいました。
 多くの映画人、映画関係者、映画ファンの皆さまに、今こそ「映画が自由でなかったとき」のことを知っていただきたいと思い、講演録を復刻しました。ぜひお読みください。

【講演録】 ★映画人九条の会2006・3・8学習会 復刻★

映画と憲法
──映画が自由でなかったとき──

講師・山田和夫 (映画評論家・映画人九条の会代表委員・故人)

2006年3月8日(金)/文京シビックセンター4階シルバーホール

イントロダクション

 ただいまご紹介いただきました山田和夫です。
 今日は「憲法と映画」という題で講演しますが、むしろ副題の「映画が自由でなかったとき」がどんな状況であったかをできるだけ具体的にお話をして、では今私たちは何をしなければならないか、を考えるきっかけにして頂ければと思います。

はじめに- 戦艦大和が沈んだとき私は……映画『男たちの大和』の善意と真実

 レジュメにある“戦艦大和が沈んだとき私は……映画『男たちの大和』の善意と真実”を入り口として、お話させていただきます。
 ご存じのとおり去年の暮れ(2005年12月17日)から映画『男たちの大和』が公開され、東映で久しぶりの大ヒットになりました。監督の佐藤純彌さんは、初監督作品が『陸軍残虐物語』という強烈な反軍映画でしたし、また、いろんな文章を読みましても、今の憲法を非常に大切にされている、そして二度と戦争をしてはいけない、という気持ちを強くお持ちの方であるということは疑いがありません。
 8月にこの映画のクランクアップ記者会見、こういう記者会見は珍しいんですけれど、私はシナリオが事前に読めなかったこともあり、心配だったのでこの記者会見に行きました。
 帝国ホテルの大広間に600人も集めて行われ、半分は募集した一般の男女高校生、もう半分がマスコミでした。そこで記者から「もし戦争になったら、あなたは愛する人のために戦いに行って死ぬことが出来ますか」という質問が出ました。私は不安だったんですが、反町隆史さんや中村獅童さんといった俳優さんが、少し考えながらも「愛する人のために死ねます」と言うんですね。確信犯的に言い切ったのは渡哲也さんで、石原軍団の長ということもあるのでしょうが、「私はそういう事態になったら命がけで行きます」とズバリ言うのです。
 あ〜あ、と思っていたら、最後に佐藤純爾監督が「違う」と、はっきり言いました。「戦争が起きてからでは遅い。戦争が起きないように我々は何をしなければいけないのか、それをこの映画を見て考えて欲しい」と発言されたのです。
 私はホッとしたのですが、しかし翌日のスポーツ紙やテレビで取り上げられたのは、俳優さんたちの「愛のために戦争に行きます」という姿ばかりで、監督の発言は一切出て来なかった。実は仲代達矢さんも良いことを言っていましたが、これも出てこなかった。その状況に私はとても心配になりました。
 この映画を見に行った人の中で色々な反響がありますが、私の周りでは「危惧しながら見に行ったが、思ったより良かった」という声がかなりあります。この映画は、そういう反応が出るような面も持っています。その点では佐藤純爾監督の、戦争は絶対に起きてはいけないという思いが滲み出ている部分も結構ありますが、逆に「若者の純粋さは尊い、美しい」という声が出てくると、ちょっと待ってくれよ、と言いたくなる。
 戦艦大和が沈んだあの1945年の6月、私はまさに、あの映画に出て来た17才の海軍特別年少兵でした。海軍特別年少兵は海軍で最も年若い兵士で、14才から15才で海軍に入り、過酷な訓練を受けて、17才くらいで軍艦に乗艦します。この年少兵については今井正さんが1972年に『海軍特別年少兵』という映画を作っておられますので、それをご覧になれば実態がよく分ります。
 私は同じ17才で、海軍航空隊におりました。16才で予科練の少年兵を志願して、しかし基礎訓練が終わった頃には乗る飛行機がなく、水上水中の特攻要員に志願しろということになり、そして最後の17才の年に、岡山の海軍倉敷航空隊で水上特攻要員の訓練を受けていました。
 17才の年少兵だった私も、同じく戦艦大和とともに沈んでいった沢山の17才の年少兵も、実のところ日本のやっている戦争がどういう戦争であったのか、何も分っていなかったんですね。
 まず学校の教育は、日本は神の国で、天皇陛下の御稜威(みいつ)、つまり御威光で全世界を一つの家にする、ということで、日本の行っている戦争は聖なる戦争、聖戦だと。当時は国民という言葉はなく、臣民、つまり王様の家来ということですが、臣民は天皇のために命がけで戦って死ぬことが最大の名誉であると教えられていました。しかもアジア太平洋戦争が始まってからの──中国を侵略し、アメリカ、イギリスと戦争を始めた時に、その理由も経緯も何も教えられなかった。なぜ始まったのかも分らない。ただ日本軍は正しい、相手国が間違っている、ということしか知らなかったわけです。そういう教育で頭が作りかえられていたことが基礎にあります。
 それに加えて、当時の大衆的な人気のある娯楽メディアというのは映画しかないのです。ラジオもNHKしかありません。その映画が、状況の推移の中で、一つの方向のことしか語らない、知らせないというものに統制されて行く。
 私たちは、学校ではそういう教育を受け、学校から解放されても一つの方向のことしか語らない映画を観て楽しんで子供時代を過ごし、成長したのです。
 私のレジュメに“映画『男たちの大和』の善意と真実”とありますが、私は佐藤純爾さんの善意は疑いませんが、出来上がった映画は大変に危険だと思いました。中国の新聞から、「『男たちの大和』という恐ろしい映画ができたらしいが、それについて批評を書いてくれ」という依頼が来ました。私は、「恐ろしい映画というのは困る。そういう映画ではないが、大きな問題点もある」ということで、「この映画には、死んで行った少年兵に対する悲しみと涙はあるが、少年兵たちを死なせた責任者に対する怒りがない。涙はあっても怒りがない」と書きました。
 中国の人たちがこの映画を見た時に、「ああ、日本の若者も大変だったんだな」と思うかも知れません。しかし同時に、「私たちの方がもっと大変だった」という声が必ず続いて出るでしょう。  その彼我の温度差というか、考えの方の差が現にある時に、いくら主観的には善意であっても、キチンと描かなければ、逆方向の危険な効果を生んでしまうということを、私は自分の経験から申し上げたいのです。
 私自身がそれを経験したのは昭和18年、1943年10月の「学徒出陣」のニュース映画です。これは当時、ただ一つのニュース映画であった「日本ニュース」の中でも、傑作の呼び声高いものです。
 その映画を私は劇場で観ました。そのニュースは二つのテーマしかなかったのです。最初は「決戦」と題したニュース映画が上映されました。南太平洋海戦のニュースですが、これは実はアメリカ側が撮ったものだったのです。そのフィルムを日本が南方で鹵獲(ろかく)して、それを使って見せているわけです。アメリカ側が撮ったものですから、日本軍機が撃墜されるシーンなどが入っています。それまでのニュース映画では、検閲で絶対に見せなかったものです。しかし1943年の10月頃となると、日本がギリギリのところまで追い込まれていた頃ですから、もう今までの勝った勝ったの報道では国民を引っ張っていくことができないということで、そういう凄惨な現代戦の実態をある程度見せようということになったのです。今までそんな凄まじい戦闘場面は見たことがなかったから、私も観客もびっくりしました。
 その場面が終わったあとに、真っ暗な画面の向こうから白抜きで「学徒出陣」というタイトルが出てくるのです。実に上手い編集です。最初に太平洋戦争の凄まじい状況を見せて、いよいよじっとしていられないから学徒も出陣するんだ、ということでタイトルが出切って、そのあと有名な雨の中の分列行進の場面が続くという構成だったのです。
 私は当時これを15歳で観ましたが、子供であろうと大人であろうと、観た人はショックを受けたと思うのです。本当にじっとしていては駄目だ、なんとかしなければこの国は危なくなる、というふうな思いを駆り立てるには、最も効果的な構成であったのです。
 戦後、その雨の中の分列行進を撮影した人たちの談話が出ましたが、彼らは実は1920年代から30年代の終わりにかけて、プロレタリア映画運動で勇敢な映画の闘いをやった人たちなんですね。弾圧で潰され、ニュース映画のカメラマンになった。だから、なんとか今の戦争の実態を伝えたいと思っていた彼らは、徴兵猶予を打ち切られて出征する学生たちの行進を死への旅立ちと受け止め、まさに葬送行進曲の気持ちで、あの映画を撮ったということなんですね。そしてこの映画は、ニュース映画として屈指の傑作になったのです。
 しかし、実際にその映画をリアルタイムで見た一人である私が、その時にどんな印象を持ったかと言えば、旧制中学生である子供の自分たちもじっとしているわけにはいかない、という気持ちに駆られて、そして少年航空兵に志願するという結果になったのです。
 作った人たちの主観的な思いはそうであっても、それがどういう時にどういう人たちに観られるかによって、私たちの場合には教育の素地があった上で、戦争が激しくなったときに観せられましたから、本当にもうすべてを捨てても行かなければならない、という気持ちになったということなんです。だから、何をどう描くかということがキチンとやられていないと、主観的にはそんなつもりではなかったというだけでは済まないことがどんどん起きる。私自身がその被害者の一人です。そのことによって自分の愚かさを逃れようとは思いませんが、しかしそういう恐ろしい効果を映画が持ったということです。
 だから『男たちの大和』についても、史上最も愚かな作戦と言われているあの海上特攻に、いったい誰が送り出したのか、こんな馬鹿なことを命じたのはいったい誰なのかという怒りがもっと描かれていれば、違った結果が出てくるだろうと思うのです。
 今また、2005年の終わりから2006年にかけてこういう映画が出てきたということになると、かつて日本映画がどうであったかということを、もう一度みんなで考え直す必要があるのではないかと思います。

「大日本帝国憲法」からはじまった──天皇絶対主義、国民は「臣民」

 いよいよ本論に入ります。いま私たちが守ろうとしている憲法は、言うまでもなく1947年に公布された「日本国憲法」ですが、その前にあったのは、明治23年、1890年に公布された「大日本帝国憲法」です。
 憲法というのは、その国の基本法なのです。すべての法律は、基本法に基づいて作られます。ヨーロッパでは15世紀頃から、王様に勝手なことをさせないために民衆が王様を縛るために憲法を作りました。民衆が権力者に押し付けるのが憲法なんです。
 ところが、日本の「大日本帝国憲法」は欽定憲法、つまり天皇が定めて国民に下賜するものとして始まりました。「大日本帝国憲法」の一番の勘所が何かと言えば、第一章「天皇」第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書いてあることです。そもそも万世一系などというのは、歴史を少し勉強すれば怪しげなものであると分るんですが。そして第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とある。
 では「国民」という言葉はどこに出てくるかというと、出てきません。出てくるのは「臣民」という言葉です。第二章「臣民の権利義務」で出てくる。だから「国民」はいない。主権はすべて天皇が握っているという天皇絶対主義で、国民は「臣民」であるというのが、「大日本帝国憲法」時代の日本の在り方でした。

「教育勅語」「軍人勅諭」そして「戦陣訓」

 天皇はその前後に、憲法をサポートする形でいろんな「勅語」「勅諭」を発しています。その中で一番有名なのが「教育勅語」です。大日本帝国憲法の翌年に出されたのですが、これには「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とある。有事の際には全てを捨てて国のために尽くせ、ということです。それを反省して戦後「教育基本法」が出来たのですが、その教育基本法も今、変えようとしている大変な時代です。(2006年12月22日に改定された)
 その前に、西南戦争の直後に明治天皇が「軍人勅諭」を出しています。私も軍隊に1年半ほど居ましたので丸暗記させられましたが、流石にもう憶えていません。ただ、意味は憶えています。「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」という言葉から始まる。天皇が絶対者で、その絶対者に率いられているのが日本の軍隊であるということです。この仕組み、天皇と軍が一体化したところに、戦前戦中の恐ろしい状況の根幹があったと私は思います。
 その延長線上で1941年、太平洋戦争が始まった年に東条英機陸軍大臣が出したのが「戦陣訓」です。「生きて虜囚の辱かしめを受けず」と書かれたものです。これのために、どれだけ多くの日本の兵隊が死に至ったか。最後まで闘って手を挙げることは、世界的には名誉なことなのですが、それを「生きて虜囚の辱かしめを受けるな」というのが「戦陣訓」だったのです。
 また戦後、B級、C級戦犯で沢山の人が処刑されましたが、これらの人たちの多くが、上官の命令によって捕虜を虐待したとして戦争犯罪に問われたものです。その根幹にはこの「戦陣訓」がありました。捕虜になるような者は軍人の風上にも置けない、敵でも捕虜になる奴は何をやってもいいんだという、捕虜を蔑視する考え方があったからのです。
 現在、米英軍のイラク兵捕虜に対する虐待問題が続々と出てきていますが、これもメンタリティは同じですね。それに人種差別意識も加わっているでしょうし。日本もアジア侵略は明治時代から始まりましたが、中国人はチャンコロ、ロシア人はロスケと蔑称し、蔑視していました。その延長もあるのですが、基本的には「戦陣訓」によって捕虜になることほど恥ずかしいことはない、捕虜になるぐらいなら死ねと言われてきたものですから、敵兵の捕虜たちを人としてまともに扱うなどという気にならなかったのです。

新聞紙法、出版法、治安維持法、そして映画法

 そういう大日本帝国憲法、勅語、勅諭があり、それを大きく支えるために、「新聞紙法」「出版法」というメディアを統制するための法律ができます。そして、その総元締めとして1925年、大正14年にできたのが「治安維持法」です。
 「治安維持法」がどういうものだったかというと、国体を変革する、つまり天皇制を変えようとして団体を作ったり運動をしたりする人は、最高で無期懲役の刑罰に処するというものです。
 これが1928年、昭和3年6月に改悪されました。当時でも法の改正は、形だけでも議会を通さければならないものだったのですが、「治安維持法」の改悪は勅令によって改正されました。欽定憲法ではそれが可能だったんですね。勅令で法改正をし、議会が事後承認するという形です。
 どういう改悪だったかというと、最高刑が死刑です。国体を変革しようと運動した者は勿論、運動する者と知って協力した者も死刑です。「治安維持法」を死刑法にしたのです。
 この法律には映画に対する言及はありませんが、仮に天皇を些かでも批判するような映画を作ったとしたら、「治安維持法」で検挙されるわけです。
 先ほど言いましたプロレタリア映画運動という、労働者や農民のための自主制作、自主上映運動が活発に行われたのですが、これが「治安維持法」で弾圧されました。今では考えられないことですが、自主上映をやったということで捕まって、ひどい目にあった人が何人もいます。
 映画法が出来るのはもっと後の時代ですが、基本は大日本帝国憲法から治安維持法に至る大きな筋があったのです。

「映画法」の3本柱──1.映画検閲の徹底/事前検閲の追加

 映画については、検閲がすでに1912年、大正元年から各地の警察が映画を事前に見て、上映を禁止したり、カットするという形で行われていました。しかしそれでは、ある町ではカットされたものがある町ではカットされないという事態が起こり、統一できないということで1925年、治安維持法ができた年に、全国の映画の検閲を内務省の警保局に一元化することになりました。その一元化の際の基準が、後にできる「映画法」にそのまま移行しました。
 映画法自体には、検閲を合格しなければ映画の上映を許可しないとしか書いてありませんが、ではどういう基準で検閲をやるのかというと、「映画法施行規則」というのがあって、そこに不合格の基準が列挙してあります。これが先に述べた検閲一元化の際に設けられた基準を援用しているわけです。ただ違う点は、「映画法」以前は出来上がった映画を見てカットしていたのですが、「映画法」以降はシナリオ段階で事前検閲し、出来上がった映画を見てまたカットする、という運用になりました。
 「映画法施行規則」を読みますと、ここでも大日本帝国憲法がバッチリと出てきます。「1.皇室の尊厳を冒涜し又は帝国の威信を損するおそれのあるもの」。これがまず駄目です。二番目は「政治上・軍事上・外交上・経済上その他帝国の利益を害するおそれあるもの」、三番目は「国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上支障のおそれあるもの」、四番目が「国民文化に対し誤解を生じせしめるおそれがあるもの」、五番が「製作技術が著しく拙劣なるもの」、六番には「善良なる風俗をみだし国民道義を頽廃せしむるおそれあるもの」とあります。
 このように映画の検閲というのは、想像できないぐらい目茶苦茶なことをやっていました。
 今でこそ俳優が天皇を演じることは珍しくありませんが、戦前戦中ではもうとんでもないことです。天皇の尊厳を傷つけるような映画は、はじめからないんです。反体制的な映画──貧乏人は団結して闘わなければいけないとか、貧乏人はこんなに酷い目にあっているのに金持ちはこんなに贅沢をしているなどいうことをチラチラと見せただけで、全部切られたのです。だから、そんなものは始めから撮らないという自己規制が拡がります。
 自己規制が拡がって最大の災厄を受けたのが、接吻場面です。日本映画に接吻場面が出てくるのは戦後ですが、外国映画では接吻場面が片っ端から切られました。『ニューシネマ・パラダイス』の主人公の少年が大きくなって、親友だった映写技師の贈り物として、接吻場面ばっかりの切られたフィルムを貰うというシーンがありますが、日本だってそうだったのです。男の俳優と女の俳優の口が近づいたと思ったらパッと離れた、なんて馬鹿馬鹿しいものもありました。
 検閲で一つの基準ができると、それがまた無限に拡大する。例えば、「皇室の尊厳を冒涜」ということがどこまで行くかというと、外国の王室を扱った映画は全部引っ掛かります。英国映画の『ヘンリー八世の私生活』という名作映画も上映禁止になりましたし、キャサリン・ヘップバーンの『スコットランドのメアリー女王』も駄目、有名な『うたかたの恋』というフランス映画も上映禁止になりました。もし『ローマの休日』があの当時製作されていたなら、日本では公開できなかったでしょうね。止めどがありません。
 特に日本の監督たちが怒ったのは、菊の御紋章どころか菊の御紋章に似た模様すら使ってはいけない、などといった拡大解釈でした。当時、黒澤明さんは助監督時代に検閲官のところへの使い走りをやっていたのですが、当時を振り返り、「あの連中は精神異常者なのではないかと思った」と書いています。御所車の模様が「菊に見えるから駄目だ」と言われたのですから。それくらい映画は不自由を強いられたのです。

2.映画人の登録制と技能審査/実質的な思想調査による統制

 段々と中国との戦争が大きくなり、一方で映画の影響力も大きく広がってきて、遂に1939年、昭和14年に「映画法」ができます。
 この「映画法」の三本柱の一本目は「映画検閲の徹底」です。これは、できたものを検閲するだけでなく、作る前に検閲する、事前検閲を追加しました。
 そして二本目がもっと怖い「映画人の登録と技能審査」です。これは監督や俳優、技術スタッフのみならず、映画界で仕事をする者は、営業部長や専務や社長に至るまですべて登録証明書を貰わないといけない、というものです。登録証明書を貰うためには審査があります。
 例えば昭和15年度に実施された演出の部の技能審査の問題ですが、「映画の社会的使命を論ぜよ」「我が国の国際的発展の次第を述べよ」「日本は何の為に多大の犠牲を払って支那に於ける大事業を為しつつあるか」「映画法に於ける登録制度の目的は何か」「次の事について述べよ。松下村塾、国民精神総動員等々」といった問題が延々と続きます。これは完全に思想調査ですね。
 助監督をやっていた人が監督に昇格する時には、その第一回監督作品が審査にかかります。1943年に黒澤明さんが『姿三四郎』で初監督をやる際にも、審査にかかりました。これに通れば黒澤さんは監督として認められます。審査するのは、内閣情報局の役人と、映画界から数人の代表が出て行います。役人は『姿三四郎』のシナリオを読み、「アメリカ映画みたいではないか。アメリカと戦争している国で、こんなアメリカ映画のような作品を作るのを許すわけにはいかない」と言ったのです。『姿三四郎』は戦中の大ヒット作品になったのですが、それは面白くできているからです。それがけしからん、と言う。これで黒澤さんは監督デビューできないかと思ったその時、映画界代表の一人で、すでに巨匠と言われていた小津安二郎が黒澤さんに近づいて握手を求め、「黒澤君、おめでとう。この映画は100点満点中、120点だ」と言ったのです。大巨匠の言葉に内閣情報局の役人は何も言えなくなってしまった。それで黒澤さんは1943年、『姿三四郎』で監督デビューを果たしたのです。とても良い話ですね。
 黒澤さんと小津安二郎は、いろんな意味で対照的でしょ、映画の作り方から言っても。黒澤さんはプロレタリア美術連盟でストライキの絵なんかも描いたし、非合法の無産者新聞の配達をやった経験のある人なんです。ところが小津安二郎さんは、政治的なこと社会的なことから距離をおいていて、触れないようにしていたのです。しかし小津さんも、「こんな良い映画なのに、役人風情がなにを言うか!」と我慢できなかったのでしょうね。そんなところにも小津さんの良いところが現われています。
 一昨年、小津安二郎さんの生誕100年の折に、吉田喜重監督が鋭いことを言いました。「小津さんの映画で驚くべきことは、軍服姿が一人も出てこない」と言ったのです。私はハッと思いました。あの1930年代、40年代の戦前・戦中の時期に軍服姿の登場人物を一人も出さなかったことに、小津さんの美意識を感じました。イデオロギー的にどうとか言うよりも、受け入れたくないものは受け入れない、というものがあったのでしょうね。
 というわけで、技能審査による監督の登録というものがいかに理不尽なものであったかということがよく分かります。

3.国策による企業の整理・統合

 三番目の柱に、「国策による企業の整理・統合」ということがあります。
 映画というのはフィルムで撮るわけですが、当時、生フィルムの原料は可燃性のニトロセルロースが使われており、これは火薬の原料と同じなので、政府は軍需資材と認定しました。そして生フィルムは軍需資材で戦争に必要なものだから、戦争を進める国策に沿わない映画会社には生フィルムを配給しない、と申し渡したんです。
 当時は随分たくさん映画会社があったのですが、劇映画は3社に統合せよ、と命令したのです。最初は2社と言ったらしいのですが、映画の資本家が暗躍してもう1社作ったのが大映です。そういうことで3社にして、国策に沿うような映画を作らない限りフィルムは配給しないという、台所から締め上げるような方法で「企業統合」を進めました。
 これは実は、非常に大きな影響を持ちました。「企業統合」を国の命令でやったのです。今の言葉で言えばM&Aですが、これは天下り式官製M&Aですね。国策によるリストラの強行です。
 これに対して伊丹万作監督は、作った映画がほとんど残っていないのは残念ですが、本当の意味のリベラリストで戦争中、ついに戦争協力映画を一本も作らなかった人です。体を壊したこともあって、戦争中はシナリオしか書いていません。そのシナリオで一番有名なのが『無法松の一生』ですね。これをお弟子さんの稲垣博監督が撮って、これがまた検閲に引っ掛かるのですが、それはまた後でお話します。
 その伊丹さんが1941年、映画法による「映画界新体制案」──東宝と松竹と大映の3社に統合する案に、堂々と批判の文章を書いています。
 「日本映画」という統制雑誌に、「自分一個の不安もさることながら、それよりもまず、失業群としての大勢の映画人の姿が、黒い集団となってぐんと胸にきた」と。その後には、「今度のような重大な問題の討議にあたって、一度も、そして一人も従業員代表が加えられていない」「いったい今までだれが映画を作ってきたのだ。だれが映画を愛し、映画を育ててきたのだ。実質的な意味では、それはことごとく従業員のやったことではないか」と続きます。見事な反論です。
 これは、今でもそういう傾向がありまして、依然として映画運動の代表者や映画労働組合の人間は、文化庁の映画の諮問委員会などには呼ばれません。
 当時、映画評論家で映画法に対する反論を書いたのは多分、岩崎昶さん一人だろうと思います。岩崎さんはその前に「唯物論研究会」にいて、「唯物論全書」の中の「映画論」という本を出して、それで治安維持法で捕まって1年ほど監獄にいたのですが、出てきて後、「映画法によって日本映画は衰退する」と勇敢にも書きました。
 伊丹万作さんと岩崎昶さんの二人の抵抗は、記録に残しておく必要があると思います。

映画企業、映画人はそのとき……映画企業は国策を歓迎した

 「映画会社新体制案」の当時、一番古い映画会社は日活でした。次に松竹で、東宝は1937年に出来たばかりの新興映画会社でした。
 この時、第一映画という会社の専務をやっていた永田雅一、後の大映社長で自民党の重要人物にもなるのですが、彼が暗躍をして「映画会社新体制案」から日活を排除し、日活の多摩川撮影所を取り上げて、日活を興行だけの会社にしてしまうんです。そして取り上げた多摩川撮影所を使って「大映」──正式名称は「大日本映画製作株式会社」という怖ろしい名前なのですが、これをでっちあげたんです。
 そして当時、お上の覚えの目出度かった作家の菊池寛を社長に据え、自分は専務になりました。日活が再び製作を再開するのは、戦後の1954年です。
 実はこの「企業統合」に、当時の映画資本家は誰も反対しませんでした。お上の命令で競争会社が減り自分たちが残れば、収入や利益が確保されるということです。実際にこの3社体制になってからは、どの会社も儲かっています。いっぱいあった会社をみんな潰しちゃったのですから。特に大映には、大都映画、新興キネマ、第一映画、全勝キネマ、その他名前が憶えきれないほどの多くの会社が統合されています。完全な整理統合です。
 整理統合した3社独占体制が戦争中にできて、ニュース映画は日本映画社の「日本ニュース」だけ、映画雑誌などもみんな統合されました。
 レジュメに“映画企業、映画人はそのとき”という項がありますが、そこで一番考えなければいけないのは、映画企業は国策を歓迎したということなんですね。そこでは永田雅一の大映創立策謀などと並んで驚くのが、当時松竹の社長だった城戸四郎氏です。映画界ではただ一人、1947年の3月に東京裁判の証人として城戸四郎が呼ばれます。
 私もその証言を読んで驚いたのですが、被告人(戦犯)側の弁護士がこう質問します。「昭和3年から16年まで、つまり日中戦争から太平洋戦争の開始まで、法律により映画のテーマまたは映画の製作が強要されることがありましたでしょうか」と訊いたのです。
 それに対して城戸四郎は、「法律により要求され、あるいは強要されたことはありません」と答えていることが、証言記録に堂々と残っているんです。
 あれだけ検閲によって、日本の多くの才能ある作家たちが虐められ、作りたくもない映画を作らされたり、作った映画もズタズタにされたことを、「そんなことはありませんでした」というわけですから、向こうの弁護士は大喜びしたそうですよ。
 重光葵というA級戦犯(禁錮7年)がいますが、彼などは感謝の手紙を城戸さんに出しているんです。当時、統制によって映画人たちを苦しめたことが彼らの罪の一つとして問われていたわけで、それを松竹の社長が「いやいや全然苦しめられていません」と言うわけだから。国策を歓迎したことは、そういうところに端的に現われてくるわけです。
 城戸さんについてはもう一つあります。デビット・コンテという、アメリカ占領軍の民間情報教育局(CIE)映画課長がいました。この人は大変進歩的だったので1年ほどでマッカーサーに追い返されてしまいますが、この人こそ最初に日本映画の民主化の流れを作った人です。
 彼が映画会社の社長を呼んで懇談した時に、「心配することがあったら、遠慮なく言ってくれ」とコンテが言ったら、まったく想像もしないことを城戸四郎は言ったそうです。何を言ったかというと、「アメリカ軍はよっぽど注意しないと、共産主義の映画がどんどん入ってくるから、それを大いに取り締まってもらいたい」と。デビット・コンテは左翼系の人ですから、「こんな話が出てくるとは思わなかった」ということが、後にコンテが雑誌「世界」に寄稿した“占領の映画史”の中にあるんです。
 戦争中、映画は自由ではなく、随分いじめられたという状況にありながら、むしろ逆に、資本の側はあまりそうは思っていなくて、国のおかげで儲かった、あまり苦しんでなかった、というようなことを平気で言うような心理状態がある、ということを頭の中に入れておいて頂きたいのです。
 ですから、これからも彼らが「文化を大切にする」とか「自由を大切にする」と言うような時は、あまり期待しない方が良いのではないかと思います。むしろ、そういうことは強制しない限り、あの人たちは動かないだろうと思った方が良いですね。

たたかった映画人たち

 伊丹万作さんの文筆による抵抗や、黒澤明さん、小津安二郎さんの話は先ほどしましたが、そういう中で最も勇敢な闘いをやったのは亀井文夫でしょうね。
 亀井さんは戦後の東宝大争議の時も指導的立場にいて、山本薩夫や今井正と一緒にやった人です。彼が1938年に作った『上海』という映画と、上映禁止になった『戦ふ兵隊』(1939年)は、いまビデオで見られますからぜひ見ていただきたいのですが、それがあの当時いかに勇敢な仕事だったかということがよく分かります。
 『上海』という映画は、1937年の1月7日の盧溝橋事件で中国北部で戦争が始まり、8月には中国中部の上海で戦争が始まります。そこでの戦いはものすごい激戦で、上海を占領するのに日本軍は3ヶ月かかったわけです。その間にすごい犠牲を出していますが、そこから西へ西へと進んで、その年の12月には南京を落す。ですから南京大虐殺というのは、「上海での抵抗があまりにも激しかったので、日本軍がひどい目に合った意趣返しではないかと思われる」という説があるくらい、上海での中国軍の抵抗は激しかったわけです。
 亀井文夫は上海には行っていませんが、三木茂という名カメラマンが撮影してきたフィルムを、日本にいる亀井さんが編集するという仕事をやったわけです。そうすると送ってくるフィルムがすごいんですよ。町中が焼け野原になって、コンクリートの建物の一部屋、一部屋が陣地になって戦った跡が歴然としている。中国にはクリークと呼ばれる小さな運河がいっぱいあるのですが、その岸辺は中国軍の塹壕のようになっていて、そこで日本軍がいかに苦戦したかということがありありと分かる。そうした廃墟と化した焼け跡の戦場の跡ばかりを撮っているわけです。そこには穴の開いた鉄兜が転がっていたり、中国兵が持っていた唐傘みたいなものが転がっていたり、戦死した日本兵の卒塔婆が並んでいる前でお坊さんがお祈りを捧げている中を、ひらひらと紋白蝶が飛んでいる、といったフィルムばかり撮っていたのですね。亀井さんは「これなら作れる」と言って、記録映画『上海』を作ったわけです。
 この映画は一応、「日本軍はかくも勇猛果敢に戦った」とナレーションでは勇ましいことを言っているので、なんとか検閲は通りましたが、映像はとんでもない戦争の現実を映し出していました。
 特に素晴らしいと思ったのは、上海には「租界」という欧米諸国が植民地同然に治外法権で持っているテリトリーがあるわけです。そこを日本軍が行軍するシーンが出てきます。そこでは日の丸の旗をもって歓迎している人々がいて、それは全部日本人です。そこをカメラがなめていくと、日の丸の旗が絶えたところから、ただ立って見ているだけの中国人たちが画面に現われてくる。これはもう何も言葉は要らないですよね。占領軍というのは、その国の民衆にそのように迎えられるものなのですよ。だから私はイラクだって同じだと思うんだけれど、何の説明も要らずに、カメラが追う映像だけで戦争の本質をちゃんと伝えているわけです。この映画は上映はできたけれども、亀井さんは陸軍に呼ばれて大目玉をくらったということです。
 その次の『戦ふ兵隊』はごまかしが効かなかったのか、ついに上映禁止になって、亀井さんは治安維持法違反で捕まります。1941年の6月に逮捕されて、その年の12月に太平洋戦争が勃発し、その後に釈放されるのですが、映画法での登録が取り消されて映画界には戻れない状態でした。そういう仕組みになっていたわけです。
 『戦ふ兵隊』はフィルムが残っていて、今では見ることができます。この映画はもっとすごいです。日本の戦争というものが中国に対する侵略戦争であったということを、戦時中にもかかわらず、かなり露骨にはっきりと言っています。それはもう、かなりヤバイなぁというような描き方です。戦車の上からカメラが、翻る日の丸をなめて背景を捉えているわけですが、その向こうは全部焼け野原ですよ。日本軍の戦車が通った跡はみんな焼け野原で、自分の家に火をつけられて悲しんでいる中国の農民の姿などの場面がいっぱい出てきます。
 そういうような映画を作って、ついに彼は逮捕され、出てきたときにはもう映画が作れないという状況があったわけです。
 それから山中貞雄に関しては、黒木和雄監督が新しい作品で『紙屋悦子の青春』(2006年/遺作)という映画を作りましたが、その次は山中貞雄の伝記を撮りたいと黒木監督が言っているようですので、それができれば、もっといろんなことが分かると思うのですが、山中貞雄は1938年にまだ29歳に2ヶ月足りない若さで戦病死した天才的な監督です。
 残念ながら現存している作品は、まとまったものとしては『丹下左膳 百万両の壷』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本しかありません。『人情紙風船』という映画は、出来上がった直後、山中監督は召集令状を受けて戦場に行き、翌年に亡くなってしまうという悲劇的な成り立ちをしていますが、映画そのものも死の影がにじみ出るような暗い出来上がりになっています。前進座との提携作品で、河原崎長十郎と奥さんの河原崎(山岸)しづ江さんとが浪人の夫婦役で、貧乏長屋の庶民に溶け込むことができないうちに悪事に巻き込まれて、侍としての誇りを恥じて心中してしまうという話なんです。
 この映画はもともと歌舞伎の「髪結新三」を原作にして、三村伸太郎がシナリオを書いて、それに山中貞雄が手を入れて映画化したものなのですが、シナリオ段階での最後は非常に明るいんですね。長屋の庶民たちが「俺たちが一緒になれば世の中も変るよ」みたいなセリフも出てくるような、明るい結末だったのです。ところが山中貞雄はとてもそんな気持にはなれなかったらしいですね。最後は浪人夫婦が心中をして、浪人仕事で貼り合わせていた紙風船が家の前の路地をコロコロと転がり出て行くところをカメラがじっと見つめるという、想像するだけでも気が滅入るような映画になっちゃったんですね。
 でも、そこに本当に1937年にそのような映画を作った──山中貞雄は「『人情紙風船』山中貞雄の遺作とはチトサビシイ」と手記に残していますが、若き天才的作家がそのような暗い気持におそわれていたのが1937年だったということは、証言として非常に大切だし、機会があればぜひ皆さんと一緒にもう一度見たいと思っています。
 稲垣浩の場合は、『無法松の一生』(1943年)があるわけです。その後3回ぐらいリメイクされましたが、やはり阪東妻三郎、園井恵子が出演した最初のオリジナル版が一番良いですね。
 このシナリオを書いたのが伊丹万作です。ところがこれが検閲に引っかかった。この時の検閲官のセリフというのが、当時の検閲官の陋劣な心情をそのまま暴露したかのようなもので、「人力車夫風情が、帝国軍人の妻に横恋慕するとは」というものでした。この作品は、無法松と呼ばれている人力車夫が、偶然の機会に軍人一家と親しくなって、軍人が亡くなった後、その未亡人と一人息子を一生懸命守るというお話ですから、その間に未亡人にほのかな恋心を抱くわけです。それがけしからんと言われ、「人力車夫風情の横恋慕」というすさまじい言葉になって出てくる。そんなに艶かしい場面なんて出てこないんですよ。ただ居酒屋に貼ってある美人のポスターを見て、それに未亡人の顔がダブるといった切ない場面はあるのだけれど、そんなのは全部駄目だ、少しでも想像させるものはいかん、と言って切られたのです。
 ですから稲垣監督は戦後、三船敏郎、高峰秀子主演で、「カットされたところも全部入れ込んだ完全版を作る」ということでリメイク(1958年)して、これがベネチア国際映画祭でグランプリを受賞するのですが、どうもやっぱり1943年版のほうが良いですね。
 実は先日、自宅の近くの九条の会でお話したのですが、その地域の九条の会の人たちは、今日の皆さんよりもっと高齢者の方が多くて、「やはり阪妻の無法松のほうが良かったですね」と言うと、「そうよ!そっちの方がいいわよ!」とおばあちゃんたちが大声を上げていました。オリジナル版には、そういう苦しい中で撮ったものの迫力というものがありますね。そういうものまで切ったということです。
 何も反戦を謳っているとか、体制に反旗を翻したとか、そういう問題ではなく、要するに人間が人間らしくある、そういう表現がすべて駄目だということなんです。本当の自由でないということはそういうことなんだ、ということを私たちは理解しておく必要があると思います。
 木下惠介は、黒澤明と同じ1943年に『花咲く港』というコメディで監督デビューします。この作品は特に問題なく通ったのですが、戦争中に作った最後の作品で『陸軍』(1944年)という映画があります。この作品は、火野葦平が書いた小説の映画化ですが、北九州小倉を舞台に、明治時代からずっと続いている軍人一家の物語です。母親役を田中絹代が演じていますが、自分の息子がいよいよ太平洋戦争に出征することになり、その部隊が小倉の町を行進していくところを母親が見送るわけです。それはどこまでも、どこまでも息子に追いすがっていって、涙を流しながら追いかけていく、というのが有名なラストシーンです。これはずいぶん長いんですよ。
 これはビデオにもなっていますからご覧になると分かりますが、自分の息子が戦争に行く、そのとき涙を流しながら見送ることは、一人の人間として、母親として当然のことではないかと思うのですが、「これは日本の母ではない。米英の母の姿ではないか」と言って、えらく怒られたらしいんですね。
 それで嫌気がさして、木下惠介は故郷に帰って終戦までの半年間ほど映画を作らなくて、それで戦後帰ってきて最初に作ったのが『大曾根家の朝』(1946年)です。これは木下さんが戦後に語っていることですけど、「私が描きたかったのは、軍国主義の流れの中で、打ちのめされた日本の母の、人間としての嘆きを、僕の爆発した怒りのままに叩きつけた。こんなにも人間の魂を痛めつけた、非人間的な過去の日本への抗議だと思って、この『大曾根家の朝』を作った」と。
 この映画は、 小澤栄太郎演じる職業軍人がリベラリストの学者の家に入り込んで、末っ子の息子を特攻隊に送り出したりするわけです。そして終戦を迎えた最後に、杉村春子演じる母親がその軍人に向かって「あなたにはこの家に居ていただきたくない。出ていってもらいたい。日本からも出て行ってもらいたい」と、すごい啖呵を切る場面があるんです。それが戦争中の、抑えに抑えた日本の母親の怒りの爆発だったと。その前にあったのが『陸軍』のラストの涙だったわけですから、決して突然の意思表明ではなかったということですね。

国策映画への妥協を強いられた人々のなぜ?

 “国策映画への妥協を強いられた人々のなぜ?”というのが、これが一番難しい話なんです。いま名古屋の大学に、ピーター・B・ハーイというアメリカの学者がいるのですけど、「帝国の銀幕 十五年戦争と日本映画」という本を出しています。いろんな資料を集めていて、非常に勉強になるのですが、なぜか意図的な部分があるんですね。
 どういうところかというと、「今井正と山本薩夫は、ともにいったん戦争が終わると真摯な左翼思想家、全身全霊をささげた平和主義者であると自称したが、戦時中は政府の戦意高揚の動きに熱心に協力した。彼らは生存中、戦時中の活動については沈黙を守った。この二人は、戦争遂行への参加ではなく、戦後彼らが表明した欺瞞によって批判されるべきだ」と、こう書いています。
 これはおかしいんですよ。例えば同じ本の後の方には、今井さんが「戦争協力映画を作ったことが、自分が犯した誤りのなかで一番大きいと思っている」という言葉を引用しているんですね。それがどうして“沈黙を守っている”ということになるのでしょうか。これは非常に意図的だとしか思えない。
 山本薩夫さんも『翼の凱歌』(1942年)だとか、今井さんも『望楼の決死隊』(1943年)だとか、明らかに国策映画を作っています。そのことについて彼らが反省するのは当然だし、むしろその償いのために、戦後は一貫して反戦平和のための活動をやってこられたと思います。 ですから、戦争中の妥協というか挫折というか、そういうものを軽く見ることは出来ないと思いますが、戦後そのことをどのように活かしたか、ということからきちんと見るべきだと思います。
 その当時は映画法があり、そして治安維持法があり、がんじがらめになっていた。伊丹万作のような人は、自分は戦争中一本も協力映画は作らなかった。しかし自分はこの戦争は間違っていると思ったけれど、いったん戦争が始まれば国が負けたらどんなことになるかわからないから、なんとか勝って欲しいと思った、だからそんな人間に戦争責任を追及する資格はない、と本来なら一番責任追及できる人が、そういうふうに謙虚な反省をされているわけです。
 それから岩崎さんなどもそういう抵抗をされたわけですけど、「結句、自分は潜在的な戦犯だった。本当の意味で反戦のために戦えなかった」という反省の文章を書いています。
 監督では家城巳代治さんが同じような文章を書いています。そういうふうな人たちが、みんな誠実な反省の上に立って戦後の行動を決めていったというところを、私たちはキチンと見ていかなければいけないだろうと思います。

戦後日本国憲法の時代──占領行政化、憲法の不完全実施

 “戦後の日本国憲法の時代”というのは、映画が自由でなかったときのパートUになるんですね。つまりアメリカ占領軍の時代に新しい憲法ができて、そこには国民に主権があるということを堂々と謳っている。旧憲法だと、法律の定める範囲の中で表現の自由があると書いてあるのに対して、新憲法では基本的人権を大々的に謳ってあるわけだから、本当は自由になったはずなんだけれども、1952年まではアメリカ占領軍の直接の検閲もありましたし、統制もあった。
 それに加えて1950年の朝鮮戦争とともにレッドパージというのがあって、多くの芸術家が職場を追われたのです。

「赤追放」(レッドパージ)──企業は再び「国策」を歓迎した!

 ここでも“企業は再び「国策」を歓迎した”という項目があります。事実それは、「占領軍の指令に基づいて各撮影所から共産主義、あるいはそれに同調するとみられる人たちを追放することに決めた。これによって日本の映画は健全に発展するであろう」という声明を当時の5社長が共同で出すんですね。占領軍の絶対権力のもとで反対はできなかったでしょうが、もう少しものの言いようはあったのではと思うような声明を出しています。
 東宝の人などは、その時のレットパージの通達のコピーを資料として出しています。それを読むと「通達をもらった瞬間から、自分の撮影所にある私物を持ってただちに立ち退け、二度と立ち入りは許さない」というようなことが書いてある。それが東宝の社長命令で出ています。
 そういうふうなことがあって、占領政策のもとでの不自由に対しても、映画人が有効な抵抗をしたかどうかは議論があるけれども、一番駄目なのは企業の資本家たちですね。

憲法9条の危機と向かい合ういま

 それじゃあ、私たちが戦争中に心ならずも国策に映画人も協力させられたような事態を、これから絶対にもたらさないようにするためには、どうしなければいけないか。それは一昨年の2004年、映画人九条の会が発足した時に、高畑勲監督が講演された中で、「戦争がいったん始まった時には大きな情緒的な暴風のようなものでみんなが押し流されてしまう。戦争が始まらないようにするために、いかにすべきか。いったん始まったら、押しとどめることはなかなかできない」ということを強調されました。私もそうだと思います。
 だから憲法9条が大切なんであって、今の自民党の方も「憲法9条の第1項はそのままでいいじゃないか」とおしゃっているわけで、彼らは「第2項が問題だ」と言っています。
 第2項を改正することで「自衛隊」が「自衛軍」になるわけです。それから鉄砲を撃ってもいい、戦争してもいいという「交戦権」を否定する部分を全部取ってしまう。「交戦権の否定」を外せば、一番大切な歯止めがなくなる。
 しかも今、天皇の存在を考えないといけませんが、昔の天皇の存在と比べれば「絶対神聖、不可侵」などとは思わない。政府は昔は天皇を利用していたけど、今の日本の政府はアメリカを利用している。むしろアメリカに利用されている。アメリカ第一主義のもとで、日本の自衛隊は「自衛軍」になってアメリカ軍と合体するという方向がどんどん進んでいます。
 今の天皇には絶対的な権力はないかもしれないけれど、また新たな権力者としてのアメリカと「米軍」と、日本の「自衛軍」が出てくる可能性が出てきます。
 「隊」から「軍」になるのは、山田朗先生(明治大学教授)の講演(2006年1月25日「護憲派のための軍事講座」)をお聞きしたんですけど、たった1字違いでも大違いなんです。「軍」になると、旧憲法下の「天皇と軍との一体化」が基本になってすべての自由が奪われていったのと同じような状況がいつでも起こりえると思っても間違いではない。そういう事態になってきていると思います。
 ですので「映画が自由でなかったとき」のパートUは、また機会を改めてお話したいと思いますが、今日のところはこれで終わらせてもらいます。(拍手)

質疑応答

【質問1】
 大変いいお話、ありがとうございました。今の日本の政治家たちは、「先の戦争は植民地解放のすばらしい戦争だった」と言っています。たとえばイラクにしても今、アメリカに占領をされることに対して闘いますし、先の戦争でもフランスなどが抵抗運動を行っています。日本はなぜそれが出来なかったのか。
 もう一つは、戦争の総括が全然やられていない。この点について先生のご意見を聞かせください。

山田
それはまことに恥ずかしいと思っていることの一つです。ヨーロッパではヒットラー・ドイツの下でも、映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(2005年)に出てきたような本当に勇敢な21歳の女性たちの「白いバラ(Die Weise Rose)抵抗運動」があった。
 日本にそういうものはなかったのかと言われると、必ずしもそうではない。ただ、非常に弱かった。それは真剣に総括しなければいけないことだと思います。
 山本薩夫さんにしても、今井正さんにしても、映画界に入る前からいろんな運動をやってこられた人が、やはり映画界の中では「こういう映画しか作れなかった」という状況もあったけれど、しかしその中でもギリギリの抵抗をやった人間が何人かはいる。そういうことをもっと私たちは、掘り起こさなければいけない。
 それから抵抗運動、日本の場合は治安維持法がものすごい暴力を持って、特に共産党員はかたっぱしから監獄へほうり込まれて、その中にはちょうど「白いバラ抵抗運動」のゾフィー・ショルと同じような21歳そこそこの若い女性が何人も頑張って獄中で死んでいます。そういうことが文学にもなかなか現れてこないし、ましてや映画にも現れてこない。わずかに小林多喜二が記録映画になって知られていますが、そこのあたりにも課題があります。
 私たちがもっと調べれば──今日お話したこととも関連しますが、伊丹万作の3巻の全集も出ています。その内の1巻はほとんど評論ばっかりで、その中に見事な文章があります。そのようなものを掘り起こして知らせることから始めないといけない。
 確かに非常に弱かったし、その面では恥ずかしい面の方が強いけれども、しかしそれだけではない。よくも頑張ったなぁと思われるような作品も作っているし、発言もしているというところを、みんなで良い意味の発掘をしたり、広げたりということをしていきたいと思います。

【質問2】
 冒頭にお話しされた『男たちの大和』の記者会見の話ですが、仲代達矢さんも素晴らしいことを言われたとおっしゃっていましたが、実際にどういう発言をされたのですか?

山田
 『男たちの大和』の記者会見が帝国ホテルで行われたとき、半分の300人は一般の男女高校生でした。その人たちの質問でこういう質問があったんですよ。仲代さんもほとんど同じ年頃だった、ということで、「17歳、18歳と言ったら私たち高校生と同じ年頃だけど、絶対に死ぬことが分かっているのにどうしてみんな特攻出撃に行ったんですか?」と。
 それに対して仲代さんは、「私自身、同じ年頃だったからよく分かるけど、私たちはそういうふうにしか考えられないように教育されていたんだ」と言いましたね。仲代さんは「むしろ戦争が終わった途端に、そうしろ、そうしろ!と言っていた大人が、手の平を反したように反対なことを言い出したことに愕然とした」とも言っていました。そういうのは一切報道に出てこなかったですね。

おわりに

司会
時間もありませんが、山田さんに言い足りなかったことをもう少し語っていただきたいと思います。

山田
 言い足りないことばかりなのですが、戦争中にただ一つニュース映画を出していたのは、日本映画社でした。戦後、日本映画社の製作局長に岩崎昶さんがなったんですね。その時に「我々は民主主義のために映画を作るんだ」という大変立派な戦後の宣言を出した。
 そして1946年に『日本の悲劇 自由の声』という、亀井文夫さんが監督した4巻ぐらいの中編の記録映画を出しました。それは戦争中の日本ニュースを編集したものでした。撮ったのは昔の検閲を通ったフィルムだけど、それがいかに嘘であったかということを立証するような映画を作った。
 一番の見どころは、最後に天皇が出てきて、天皇は昔は大元帥陛下だということで、きらびやかな軍服姿で白馬にまたがっている観兵式の場面がある。その大元帥の天皇の軍服姿がオーバーラップしてだんだん変わっていって、今の背広姿の天皇に変わるという有名な場面がラストだったのです。それで締めくくったように、「天皇制批判」ということが一貫していた。
 その当時、CIEの民間情報教育局の方の検閲は通ったけど、ところが総理大臣の吉田茂が──吉田茂は自分で「臣・茂」と呼ぶぐらいの人だったので、天皇を批判するなんてとんでもないと言って、「こんなものを許可するようだったら困る」とマッカーサーに直訴した。CIE とは別に、保守的なCCTという陸軍の検閲部があり、そちらでもう一度検閲させたら「とんでもない」となって、たった1週間、神田の交通会館で特別上映を認められただけで、そのあとフィルムは没収されてアメリカに持って行かれました。亀井さんは戦争中も災難にあったけど、戦後も災難にあったのです。
 そしてその次に亀井さんが作ったのが、山本薩夫さんと共同監督の『戦争と平和』だったんですね。私なんかはその映画を見て目覚めることができた、非常に記念すべき映画です。
 なんで目覚めることができたかというと、初めて日本の劇映画で、「日本が侵略戦争をやったんだ」ということをはっきりと描かれたわけですね。描いた材料というのは、亀井さんが隠し持っていた記録映画『戦ふ兵隊』のフィルムの断片なのです。
 それまでは日本の劇映画では、日本の戦争は侵略戦争だとは言っていない。いわば『男たちの大和』の若者たちと同じように純粋に国のためにとしか思っていなかった。「その純粋さだけは嘘ではなかった」ということに取りつかれていた。だけど(この映画で)やはり自分も侵略戦争に加担していたんだと思い、幸い私は戦闘には参加していませんでしたが、初めて愕然とした。
 純粋な気持ちで侵略戦争をやったってしょうがないんです。だから、そういうことが一番大切なことだと分かったのです。
 この映画も半年間、占領軍の検閲にひっかかりました。どこが切られたかというと、前に一度「映画の自由と真実ネット」で上映したときにお話しましたが、戦争を止める力は働く者の団結にあり、というのをデモでもって表現したのです。そこがバッサリと占領軍に切られた。30分近くカットされたという災難もあって、戦後もなお日本映画は自由ではなかった。
 その最たるものが、1950年の9月に命令一下でやられたレッドパージです。これも「映画の自由と真実ネット」の講演会で、若杉光夫監督と新藤兼人監督のお話を聞いたことがあります。その中で新藤さんが自分の目撃談として話されたことですが、松竹の家城巳代治監督もパージされた。彼の松竹の最後の作品が出来上がった直後にパージされ、試写を見に撮影所に行ったが、撮影所に入れなかったことがあったそうです。それを新藤さんが目撃した話をしてくれました。アメリカのハリウッドで赤狩りに遭った人もみんな撮影所に入れなかったそうですが、日本でも同じことがあったのです。
 もう一つ重大なことは、アメリカ映画が圧倒的に日本に輸入できるような仕組みを占領時代に作ってしまったのです。これは、戦後いろんな映画史が書かれていますが、なぜか書かれない。私はその頃に映画の業界通信の記者をやっていましたが、大蔵省やいろんなところを取材して、いろんなマル秘文章も見ましたし、それを記事にして書いたこともあります。全部、トップダウンでアメリカ映画が入ってきました。特にソ連や社会主義国家の映画は極度に入れさせない。それにさらに占領軍の検閲もあった。日本国憲法では「検閲はこれをしてはならない」と第21条にあるんだけれど、しかし占領軍がいる間は占領軍の検閲があった。
 そのことも含めて、今日もなお日本映画界の7割近いシェアをアメリカ映画が占めているのは、日本人がアメリカ映画大好きでそうなったという面もありますが、その前に絶対的な占領軍の権力が「アメリカ映画を何本、イギリス映画を何本、フランス映画を何本」と輸入本数の割り当てをやっていたからです。
 サンフランシスコ条約ができた後は、日本の大蔵省が引き受けてやって、1964年の貿易自由化まで輸入本数の割り当てを続けていたのです。それまでは外貨の管理がうるさかった。そんなに外貨を持っていなかったので、儲けた外貨を全部もっていかれたら大変だという表向きの理屈で、外国映画の輸入を制限したのです。しかし制限の仕方が「アメリカ映画第一主義」で、いろんな仕組みがあったのですが、それは今日は止めておきます。
 私のまとめ方がうまくなくて、レジュメにある「戦後日本国憲法の時代」と「憲法九条の危機と向かい合ういま」について、もう少しいろんな角度からお話できれば良かったと思います。
 それから、アメリカ映画産業の状況が大分はっきり分かってきました。日本の映画産業はアメリカの10年遅れぐらいで走っていますから、アメリカの映画産業の状況を知れば、これからの日本の映画産業の状況も見えてきます。そのことについて私ももう少し勉強して、その上でまたお話する機会があればと思います。以上です。(大きな拍手)

★文責は映画人九条の会事務局(小見出しは山田講師のレジュメによる)

附録:映画法(昭和14年法律第66号)

第一条 本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画事業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス
第二条 映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為サントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ主務大臣ノ許可ヲ受クベシ
2 前項ニ規定スル映画製作業及映画配給業ノ範囲ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第三条 前条第一項ノ許可ヲ受ケタル者死亡シタル場合ニ於テ其ノ業ヲ相続ニ因リテ承継シタル者ハ之ヲ同項ノ許可ヲ受ケタル者ト看做ス
第四条 主務大臣ハ第二条第一項ノ許可ヲ受ケ映画ノ製作ノ業ヲ為ス者(映画製作業者)又ハ同項ノ許可ヲ受ケ映画ノ配給ノ業ヲ為ス者(映画配給業者)本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令又ハ之ニ基キテ為ス処分ニ違反シタルトキ又ハ其ノ業務ニ関シ公益ヲ害スル行為ヲ為シタルトキハ其ノ業務ノ停止若ハ制限又ハ其ノ許可ノ取消ヲ為スコトヲ得
第五条 映画製作業者ノ映画ノ製作ニ関シ業トシテ主務大臣ノ指定スル種類ノ業務ニ従事セントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ登録ヲ受クベシ但シ十四歳未満ノ者ハ此ノ限ニ在ラズ
第六条 主務大臣ハ前条ノ登録ヲ受ケタル者其ノ品位ヲ失墜スベキ行為ヲ為シタルトキ其ノ他同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事スルヲ適当ナラズト認メタルトキハ其ノ業務ノ停止又ハ其ノ登録ノ取消ヲ為スコトヲ得
第七条 映画製作業者ハ命令ヲ以テ定ムル場合ヲ除クノ外第五条ノ規定ニ依ル登録ヲ受ケザル者ヲ同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事セシムルコトヲ得ズ前条ノ規定ニ依ル業務停止中ノ者ニ付亦同ジ
第八条 行政官庁ハ危害予防、衛生其ノ他公益保護上必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画製作業者ニ対シ映画ノ製作ノ現業ニ従事スル者ノ就業其ノ他映画ノ製作ニ関シ制限ヲ為スコトヲ得
第九条 映画製作業者主務大臣ノ指定スル種類ノ映画ヲ製作セントスルトキハ撮影開始前命令ノ定ムル事項ヲ主務大臣ニ届出ヅベシ届出ヲ為シタル事項ノ主タル部分ヲ変更シタルトキ亦同ジ
2 主務大臣ハ公安又ハ風俗上必要アリト認ムルトキハ前項ノ規定ニ依リ届出ヲ為シタル事項ノ変更ヲ命ズルコトヲ得
第十条 主務大臣ハ特ニ国民文化ノ向上ニ資スルモノアリト認ムル映画ニ付選奨ヲ為スコトヲ得
第十一条 主務大臣ハ公益上特ニ保存ノ必要アリト認ムルトキハ映画ヲ指定シ其ノ所有者ニ対シ複写ノ為一時其ノ提出ヲ命ズルコトヲ得
第十二条 主務大臣ハ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画配給業者ニ対シ外国映画ノ配給ニ関シ其ノ種類又ハ数量ノ制限ヲ為スコトヲ得
第十三条 映画ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ検閲ヲ受ケ合格シタルモノニ非ザレバ之ヲ輸出スルコトヲ得ズ
2 主務大臣ハ特別ノ事情アル場合ニ於テハ前項ノ検閲ニ合格シタル映画ノ輸出ノ制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得
第十四条 映画ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ検閲ヲ受ケ合格シタルモノニ非ザレバ公衆ノ観覧ニ供スル為之ヲ上映スルコトヲ得ズ
2 前条第ニ項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス
第十五条 主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ国民教育上有益ナル特定種類ノ映画ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得
2 行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ映画興行者ニ対シ啓発宣伝上必要ナル映画ヲ交付シ期間ヲ指定シテ其ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得
第十六条 主務大臣ハ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画興行者ニ対シ外国映画ノ上映ニ関シ其ノ種類又ハ数量ノ制限ヲ為スコトヲ得
第十七条 行政官庁ハ危害予防、衛生、教育其ノ他公益保護上必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画興行者其ノ他映画ノ上映ヲ為ス者ニ対シ興行時間、映写方法、入場者ノ範囲其ノ他映画ノ上映ニ関シ制限ヲ為スコトヲ得
第十八条 主務大臣ハ公益上特ニ必要アリト認ムルトキハ映画製作業者、映画配給業者又ハ映画興行者ニ対シ製作スベキ映画ノ種類若ハ数量ノ制限、映画ノ配給ノ調整、設備ノ改良又ハ不正競争ノ防止ニ関シ必要ナル事項ヲ命ズルコトヲ得
第十九条 本法施行ニ関スル重要事項ニ付主務大臣ノ諮問ニ応ズル為映画委員会ヲ置ク
2 映画委員会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第二十条 行政官庁ハ当該官吏ヲシテ映画ヲ製作シ又ハ上映スル場所ニ臨検セシムルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ
2 行政官庁ハ映画製作業者、映画配給業者又ハ映画興業者ニ対シ其ノ業務ニ関スル事項ニ付報告ヲ命ズルコトヲ得
第二十一条 第二条第一項ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケズシテ映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為シタル者ハ六月以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス
第二十二条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第四条ノ規定ニ依ル停止又ハ制限ニ違反シタル者
 二 第八条、第十二条、第十六条又ハ第十七条ノ規定ニ依ル制限ニ違反シタル者
 三 第十三条第一項ノ規定ニ違反シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル制限若ハ禁止ニ違反シテ映画ヲ輸出シ又ハ輸出セントシタル者
 四 第十四条第一項ノ規定ニ違反シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル制限若ハ禁止ニ違反シタル者
 五 第十五条又ハ第十八条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者
 六 第二十条第一項ノ規定ニ依ル臨検ヲ拒ミ、妨ゲ若ハ忌避シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル報告ヲ為サズ若ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者
第二十三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス
 一 第五条ノ規定ニ依ル登録ヲ受ケズシテ業トシテ同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事シタル者
 二 第六条ノ規定ニ依ル停止ニ違反シタル者
 三 第七条ノ規定ニ違反シタル者
 四 第九条第一項ノ規定ニ依ル届出ヲ為サズシテ映画ノ撮影ヲ開始シタル者
 五 第十一条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者
第二十四条 映画ノ製作若ハ映画ノ配給ノ業ヲ為ス者又ハ映画興行者其ノ他映画ノ上映ヲ為ス者ハ其ノ代理人、戸主、家族、同居者、雇人其ノ他ノ従業者ガ其ノ業務ニ関シ第二十一条、第二十二条第一号乃至第五号若ハ第六号後段又ハ前条第三号乃至第五号ノ違反行為ヲ為シタルトキハ自己ノ指揮ニ出ザルノ故ヲ以テ其ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ズ
第二十五条 第二十一条、第二十二条第一号乃至第五号及第六号後段並ニ第二十三条第三号乃至第五号ノ罰則ハ其ノ者ガ法人ナルトキハ理事、取締役其ノ他ノ法人ノ業務ヲ執行スル役員ニ、未成年者又ハ禁治産者ナルトキハ其ノ法定代理人ニ之ヲ適用ス但シ営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有スル未成年者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ
第二十六条 前二条ノ場合ニ於テハ懲役ノ刑ニ処スルコトヲ得ズ
  附 則(略)

注) この法律は、昭和14年4月5日に公布され、同10月1日より施行された。上記のものは、昭和16年改正前の制定時の条文である。
本法は昭和20年12月26日をもって廃止された。

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