【講演録】 ★映画人九条の会2・22学習集会★

近現代の日本の戦争と「領土問題」 ──安倍政権の逆行──

講師・山田 朗(明治大学教授)

2013年2月22日(金)/東京・文京シビックセンター4階・シルバーホール

イントロダクション

 皆さん今晩は。ご紹介いただいた山田です。今日は「領土問題」を軸に、戦前日本の膨張主義と戦争についてお話します。
 「領土問題」というのは何が本質なのかというと、これは明らかに戦後の処理問題なのです。戦争の後始末が実はきちんとされてこなかった、その結果としての「領土問題」なのです。なぜなら、尖閣諸島の問題というのは、日本と中国、台湾の問題です。竹島の問題というのは日本と韓国、あるいは北朝鮮との関係なのですが、領土を決定した一番最近の国際条約というのは、サンフランシスコ講和条約です。
 ところが、サンフランシスコ講和会議には中国は招かれていません。当事者がいないところで講和会議が行われたのです。中華人民共和国も台湾(中華民国)も、そもそも共に呼ばれていないのです。
 竹島の問題はどうかというと、当事者であるのは──当時すでに大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も成立していたわけですが、その代表が呼ばれたのかというと、これまた呼ばれていないのです。
 ですから実は、日本の領土を確定したと思われるサンフランシスコ講和会議には当事者が誰も出てきていないという、非常に異常な状態の中で「領土問題」がとりあえず決められたということなのです。
 もう一つの「領土問題」である千島の問題も、当時のソ連がこの条約に調印しなかったので、結局ここもきちんと解決しないままに来てしまったのです。「領土問題」を確定したはずのサンフランシスコ講和会議には、領土にまつわる当事者というのは、日本側しか出ておらず、調印したのは日本だけという、非常に不完全な形になっているのです。
 それらは、その先の解決が求められたのですが、結局なんの手も打たれないまま、戦争の後始末がきちんとされないまま来てしまったというのが、「領土問題」という形で最近になって噴出してきたということです。

「領土問題」の歴史的経緯を確認する

 今日の私の話の目的は、この「領土問題」の歴史的経緯を確認するということです。なんでこんなにこじれるのか、ということですが、いま申し上げたように領土画定の場に当事者が居なかったということも非常に重要なことなのですが、もう一つは、尖閣諸島や竹島を日本領に編入した時期というのははっきりしていますが、その時期が実は微妙なのです。微妙な時期に日本領に編入されているのです。尖閣諸島の場合は日清戦争の最中に、竹島の場合は日露戦争の最中という微妙な時期での領土編入なのです。
 もう一つは、今回の「領土問題」というのは、明らかに2011年に東京都が尖閣諸島を購入するという計画を打ち出してから急にクローズアップされてきた問題です。それ以前からこの問題は有ったわけですが、今から考えてみると、まさに東京都がやったことというのは、「領土問題」を前面に出して、戦前的な発想で言うと領土権益問題ですが、これを前面に出して危機を創出する。危機を作って軍拡、改憲路線を声高に叫んで行く。その一つのきっかけとして、この「領土問題」が利用されているというところが重要なのだと思います。
 現在、大災害もあり、また世界的な不況の中で非常に日本経済が先行き不安なのですが、これは実は、1920年代から1930年代にかけての状況と非常によく似ていますね。気味が悪いほどよく似ている。
 もちろん当時と現在では、言論の自由がまったく違います。当時は治安維持法というものがあって、何でも逮捕されてしまう状況がありましたが、今はそれと比べものにならないほどの護憲勢力が存在しているということは大きな違いです。非常によく似てはいるけれども、まったく同じように進むとは思えません。しかし私たちは、歴史の教訓を踏まえながら、同じ道を歩まないようにしていかなければいけないと思います。

「固有の領土論」や「先占論」「実効支配論」とは異なった角度から検討を

 「領土問題」というのは、色々な言い方がされます。先ほど司会の方も言われましたが、「固有の領土論」というものがあります。「どこどこは我が国の固有の領土である」ということですね。例えば竹島にしても尖閣諸島にしても、今の中学校社会科「公民」のほとんど教科書には「固有の領土である」と強調されています。もっとも、そう書かなければ検定に通らないということがありますが。
 では、「固有の領土」とは一体何なのかというと、一番分かりやすい固有の領土というのは、昔から日本人が住んでいた、あるいは日本語を話す人たちがそこに住んでいる、というのが固有の領土です。ところが尖閣諸島も竹島も、ともに無人島です。ともに無人島で、定住者がいたという記録がない所です。一時的に人が上陸したり、何かに利用したりということはあったとしても、定住者がいたという記録がない土地ですから、「固有の領土論」というのは本来、成り立たないのです。
 もちろん何人が住んでいたとしても、戦争によって取ったり取られたりということは世界的によくあることですから、何語を話す人がそこに住んでいたとしても、それで自動的にどこどこの国の領土だということはなかなか決められない、ということです。
 もう一つ、「先占論」。先に領土であると宣言した、という考え方があります。これは一応、国際法上認められている考え方ではありますが、しかしこれはやはり19世紀以前からの欧米帝国主義の膨張政策、世界の植民地化政策を正当化する論理です。だから、これに100%乗っかっていいのかどうか、難しいところです。
 それに「先占論」、先に宣言したということで言うと、尖閣諸島は日本が先に領有を宣言したというように思われますが、竹島は当時の大韓帝国が日本よりも先に領有を宣言したという事情があります。なかなかそれは複雑なんです。
 それから「実効支配論」というのも必ず出てきますが、こういう「固有の領土論」や「先占論」「実効支配論」などの考え方と違ったところから──国際的な枠組みがどう作られ、何が議論されてこなかったのか、という観点から「領土問題」を見ていきたいと思います。

朝鮮戦争の最中という異常事態の中で、当事者抜きに「領土問題」を規定したサンフランシスコ講和条約の不完全さ

 基本的に領土問題というのは、外交交渉に基づいて多国間、あるいは二国間条約によって規定されるべきものであるわけです。しかし、明確にそれが規定されているのかどうか。先ほども言いましたが、実は元々サンフランシスコ講和条約の規定というものは、非常に曖昧なのです。
 例えば、千島列島の規定を見れば明らかです。講和条約では、日本は千島列島を放棄する、と書いてあります。ところが、いわゆる北方四島と言われているものは、日本政府の解釈によれば、千島列島ではない、という解釈です。千島列島は放棄したが、歯舞、色丹、国後、択捉は北海道の一部なんだ、ということです。これはかなり苦しい論理です。歯舞、色丹はそう言えるかもしれませんが、国後、択捉も北海道の一部だと言ったら、それではすぐ隣のウルップ島との差はどこにあるのかということになる。それは言えないですよね。
 しかしそういう、ある意味で明確になっていないところを、自己の解釈でやってきたのです。そういうところがサンフランシスコ講和条約にはあります。ですからこれは、完全に出来あがったものではなくて、とりあえずそのように規定されたものなのです。
 というのは、講和条約が結ばれた背景を考えてみると、戦争中なのです。朝鮮戦争の最中にこれは締結されたもので、まさに異常事態の中でこの講和条約は結ばれたのです。そもそも歪な形で結ばれたという事情があります。
 ですからそれを是正していかなければいけなかったのですが、それがずっとなされてこなかった。国家の賠償請求権は放棄したという形になっていますが、講和条約はその点が非常に曖昧で、請求権は放棄するけれども請求したい国はどうぞ日本と直接交渉してください、という奇妙な規定になっているのです。実際に賠償を要求した国もありますし、また賠償に代えて日本が経済援助をするという形になった国もあります。ところが原則は、賠償請求権を放棄したということになっている。
 それから、個人の請求権はどうなったのかというと、ここが大きな問題です。それらはずっと棚上げか、あるいは解決したのだと無理矢理言われたまま、放置されてきました。
 サンフランシスコ講和条約は安保条約と抱き合わせで調印されたわけですが、日本の戦後の在り方を強く規定したこのサンフランシスコ講和条約と安保条約の色々な矛盾が、本来ならば戦後数十年かけて解決してこなければいけなかった問題が、ずっと先送り、先送りされて、今になって非常に歪な形で噴出してきた、ということです。

「領土問題」はナショナリズム・排外主義を煽り立てる

 実際に領土とか権益問題は、ナショナリズム・排外主義を非常に煽り立てる問題です。領土問題になると、途端に冷静さを失ってしまう人が結構います。例えば戦前、1930年代初頭においては、「満蒙は日本の生命線だ」というような言い方が強く叫ばれました。これは何に対する危機感かというと、中国の国家統一の動き。これは北伐と言い、蒋介石が中心となって、分裂状態にあった中国の国家統一をしていく動きが1920年代の半ばから始まります。この北伐の動き、国家統一の動きが、当時日本が権益を持っていた山東半島や、さらに満州に及ぶことを恐れて、日本は山東出兵を行い、事実上満州の支配者であった張作霖を暗殺し、そしてその機に乗じて関東軍が出兵して満蒙を占領するつもりだったのです。張作霖爆殺事件というのは、未完に終わった満州事変なのです。
 ここでも中国の動きを発端とする排外主義、危機感の煽りがあって、ここから日本はおかしな方向に行ってしまうわけです。これはまたあとで話をします。
 この領土問題とか権益問題というのは、もちろんそれを純粋に解決しようという取り組みは為されてきた部分はあるのですが、大体その他の問題に利用されるのです。先ほどの「満蒙は日本の生命線」もそうです。そのあとの日本の大陸への侵略というのは、まさにその危機感が利用されていったということがあります。
 当時は大変な不況下で、また日本ではまだ関東大震災(1923年)の傷が癒えていない時期だったのです。そういう意味では、人間の不満、不安が非常に高まっているときに、そういう形で危機感が煽り立てられるというのは、現在と1930年代初頭というのは、非常に似通っています。対外的な緊張を高めることで改憲──当然これは9条改憲ということですね。それで、「国防軍」を創出して軍備拡張へと。

11年ぶりに増加に転じた防衛予算

 実は防衛予算は2003年から11年連続で、少しではありますが減少しているんです。そんなに大きな額ではないんですが、それでも少しは減少している。国家財政の危機的状況の中で、ある意味それは当然は当然なのですが、逆に言うと2003年まではずっと増え続けていたのです。
 世界的にみると、冷戦が1990年、91年頃に終わったにもかかわらず、日本の軍事費はそのあと10年以上ずっと伸び続けているのです。その結果どうなったのかというと、ヨーロッパにおける軍縮とアジアにおける軍拡という非常にはっきりとした構図が出来てしまったのです。例えば現在、日本の陸上自衛隊は、実数で14万5千人ぐらいでしょうか。定員でいうと15万人ですが、この15万人という数は、ヨーロッパの軍隊と比べてみると、イギリスの陸軍は大体10万人ぐらいです。フランス、ドイツ、イタリア、この辺りも大体11〜12万人です。つまり冷戦後、大幅に軍縮しているのです。
 元々、特にフランスは伝統的に陸軍国で、30万人ぐらいの陸軍を持っていたのですが、冷戦後一挙にそれを縮小して、今11〜12万人というところまで減らしています。
 ところが日本は、定数でいうと18万人から15万人に減らしているのですが、実人員は変わっていないのです。元々定員が埋まっていなかったので、あまり変わっていない。陸上自衛隊の数は大体14万人後半ぐらいのところで変わっていないのです。ですから、世界政治が大きく変化して、世界的に軍縮の潮流があったにもかかわらず、日本の場合はほとんど軍縮に手を染めなかった。
 しかし、少しとは言え防衛予算は削られてきたので、防衛省や国防族と言われる人たちの危機感が非常に強まっていました。つまり、10年も軍事費が減らされてきている。ここで何とか巻き返しをしようと、このタイミングを狙っていた節があります。さかんに北朝鮮の危機を煽ったり、今回は中国の危機を、まさに戦争前夜であるかのように煽り立てる。
 これは当然改憲し、そして軍を作っていくということになるのですが、自衛隊が国防軍になったら、縮小するということは多分あり得ません。軍にしたい人たちには、軍にして規模を小さくしますという議論はまずありません。当然、規模は大きくなる。冷戦下にほとんど縮小しなかった日本の軍事力は、これを一つの機会にさらに拡大していくということになります。

日本が軍拡すれば、世界の半分ぐらいが連鎖的に軍拡していくことになる

 実は日本を取り巻く軍事情勢というのは──ここで日本が北朝鮮や中国を対象にして軍備拡張に走れば、当然中国や北朝鮮はそれに対抗して軍備を拡張します。中国が軍備を拡張するとどうなるかというと、日本ではさらに軍拡論が高まるわけですが、もっとも刺激されるのはインドです。インドは中国とのライバル関係にありますので、中国が軍拡すると必ずインドが軍拡します。インドが軍拡すると、必ずパキスタンが軍拡します。パキスタンが軍拡するとどうなるかというと、中東諸国が軍拡します。
 ということは、日本が中国や北朝鮮を相手に軍拡モードになると、世界の半分ぐらいがどんどん連鎖的に軍拡していくことになるのです。インドの軍拡はインド洋の軍拡に結びつくので、タイとか、そういうところの国の軍拡にも跳ね返っていくのです。
 ですから、こういう危機が煽り立てられて自衛隊を軍にし、増強していくというようなことが進み始めると、ただ単に日中関係とか日朝関係に止まらず、世界の半分ぐらいの面積の軍拡へと進んでいくということです。私たちはそこを捉えておかなければいけないと思います。
 1920年代から30年代にかけての教訓というのは、軍に反対する勢力であったり、民主主義を求める勢力は当時からありましたが、それでも中国に対する戦争が始まると、大体押さえ込まれてしまったり、あるいは膨張主義に飲み込まれてしまうということが多かったのです。ですから対外危機とか軍備拡張が叫ばれた時は、民主勢力にとっても一つの試金石であり、ここでそういう挑発というか、戦争を煽り立てる議論に対して乗ってしまったら、大変なことになります。

尖閣諸島=魚釣島問題

 ここで領土問題についてまとめてお話したいと思います。
 中国との間の尖閣諸島の問題ですが、地理的位置で言うと日本では沖縄県石垣市に属しており、台湾では台湾の宜蘭(ぎらん)県、中国では台湾省に属しているということになっていますが、実は日本も中国も、尖閣諸島という島々をひとくくりのものとして長らく意識してこなかったのです。前近代から近代にかけて、ひと繋がりの島々と意識してこなかったのです。
 今の尖閣諸島を初めて諸島という形で一連のものとして認識したのは、イギリス人です。イギリス人はちょうど日本の幕末開港期、1860年代にすでにこの周辺の海図を作っています。イギリスはなんと言っても世界の海を支配することが世界支配の基盤だったので、支配のために非常に正確な海図を作りました。海図を作るということは、なかなか手間暇のかかることで大変なのですが、東洋においてもいち早くイギリスは海図を作ったのです。
 1860年代イギリス海軍の海図には、“The Pinnacle Islands”という名前で今の尖閣諸島が出てきます。「尖がった島」という意味なのですが、尖閣諸島というのは“The Pinnacle Islands”の意訳なのです。ここから取っているのです。
 日本でも中国でも──中国側の文献には尖閣と思われる島が出てきますが、いずれも定住者がいたという記録はありません。これは明らかです。水がないので、住みようがないのです。後に日本人が一時的に住んだことはあります。鰹節工場を作ったり、アホウ鳥の羽毛を採取することをやったことはあるようですが、そこに定住した人が居たという記録はありません。
 そもそも地理的にいうと、明治の初めに頃に今の尖閣諸島に対して、ある意味一番影響力を及ぼし得たのは、琉球王国です。日本でもなく、当時清国であった中国でもなく、琉球王国が最も地理的にも近いということがあります。しかし日本は明治の初めの頃に「琉球併合」をやってしまいます。あまり「琉球併合」とは言わず、日本では「琉球処分」と言いますが、これは客観的に見たら琉球王国の併合です。
 それがまず前段階にあり、それで沖縄県が設置されます(1879年/明治12年)。そこから尖閣問題がはっきりしてくるのですが、1884年(明治17年)に日本人の古賀辰四郎という人が「魚釣嶋」などを探検しました。そして翌年(1885年)、古賀は日本政府に対して──まだ尖閣諸島というくくりがないものですから、「久米赤嶋久場嶋及魚釣嶋」の貸与を日本政府に申請します。
 日本政府は沖縄県を通じて調査をするのですが、慎重でした。なぜならば、これを日本領と言っていいかどうか、当時の日本政府にとってもすぐに決められないことだったのです。というのは、日本は琉球を併合したのですが、明らかに当時の清国、中国との紛争を招きかねないということで、10年間棚上げにしたのです。
 この段階で、明らかに「無主の地」であり、誰も住んでいないし、誰もはっきりと領有しているという意思を示していないから、「先占してもいいかな」という議論はあったのですが、しかしちょっと微妙な場所なのでやめておこう、ということで10年間放っておきました。

日清戦争の末期に領有を宣言

 ところが10年後、1895年1月14日、日本政府はこれら「久米赤嶋久場嶋及魚釣嶋」(尖閣諸島)の領有を閣議決定します。それまで慎重だったのに、なんでこの時期に日本政府は一気に領有することにしたのかというと、この時期は日清戦争の最中なのです。中国と戦争をやっている最中に領有を宣言したのです。なんで領有を宣言したのかというと、実は1895年(明治28年)の1月頃というのは、日清戦争の末期に差し掛かっていて、日本軍は講和交渉を有利に進めるために既成事実を作る、つまり占領地を拡げるということをやっていたのです。
 レジュメにも書きましたが、2月1日に日清講和全権──日清の講和条約を話し合うための全権が広島県庁で話し合いを始めたのですが、日本側がまず交渉を拒否します。清国側が全権委任状を持っていないとか形式的なことを言って交渉を先延ばしにするのです。
 なぜかというと、ちょうどこの時期は日本軍はあちらこちらに上陸して、占領地を拡げていた時なのです。なるべく占領地を拡げた後で、既成事実を作った後で講和交渉をやった方が色々とカードが増えるということです。
 2月2日、まさに講和会議が始まろうとしていた時に、日本軍の第2軍は山東半島の威海衛(いかいえい)を占領します。威海衛というのは、中国の海軍基地があったところです。3月20日には日清講和会談が始まりますが、3月23日には日本軍は澎湖(ほうこ)諸島──これは台湾と中国の間にある島々ですが、これらを占領する。そして4月17日に下関で講和条約が調印され、この下関講和条約によって遼東半島──これは日本軍が既成事実として占領していた所です。それから台湾。台湾は実はまだ占領していなかったのです。上陸もしていなかったのですが、ここも割譲する。それから澎湖諸島(占領済み)を割譲する、日本へ譲り渡すということが決められました。
 で、尖閣諸島は、軍事占領したわけではなくて、そもそも人が住んでいなかったのですから軍事占領する必要もなかったのですから、領有の宣言だけをしたのです。もし清国人が住んでいたら軍事占領という形になっていたと思いますが、人が住んでいない所ですから、特に軍事占領の必要もなかったのです。ですから、講和条約にも尖閣諸島については何にも書かれていません。何にも書かれてないのですが、日清戦争の最中に日本領になってしまったという事実は、これは確かなのです。まさにここが微妙なところなのです。
 つまり講和条約には書かれていないけれども日清戦争、日本と中国が戦争をやっている時に、日本領ということが宣言された場所である、ということなのです。手段は平和的に日本領に編入されたのですが、その時期が戦争の真っ最中であるということです。
 しかも講和条約によって清国側は相当な領土的損失、台湾も含めて割譲するということになった。台湾まで日本領になってしまったということは、尖閣諸島というのは、ほぼ自動的に日本領であるということを清国側も認めざるを得ない状況だったと思います。台湾を割譲しておいて尖閣だけは違うというのは、あり得ないことですから。地理的に見ても。
 そういう点では、条約に書いてはいないけれども、日清戦争に最中に日本領になったという事実は動かせないということです。
 この後、日本が実効支配することになり、沖縄戦の結果、今度はアメリカが支配下に置くことになりました。

尖閣諸島問題が国際的にクローズアップされたのは1960年代

 この問題が国際的にクローズアップされたのは、1960年代です。1969年(昭和44年)に国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)が尖閣諸島周辺に石油や天然ガスが大量に存在する可能性を発表してからです。それからもう一つは、沖縄が日本に返還されるということが決まって、尖閣諸島がアメリカの問題ではなく、日本の問題、日本との間の問題だということがはっきりするようになってから、国際問題化したわけです。
 1970年、台湾が尖閣諸島の領有権を主張します。レジュメには書きませんでしたが、当時まだ琉球政府というものがあって、琉球政府は尖閣の領有を宣言しています。そして1971年6月17日に沖縄返還協定が調印され、同じ年の12月30日、中国は尖閣の領有権を主張するようになりました。
 この後、日中国交回復が行われ、有名な話ですが「この問題は棚上げする」ということで、あえて領有権問題に触れないということになったのです。このような経緯があります。
 中国は、「釣魚島は日清戦争に乗じて日本側が奪ったもの」と主張しています。これは、間違いではないのです。日清戦争の最中に日本領になったことは間違いないのですから。ただ、講和条約には規定されていないという非常に微妙な問題だということです。
 ということは、この微妙な問題は本来、サンフランシスコ講和条約のところで決着をつけるべき問題であったということが言えます。これはまた後でお話します。

竹島=独島問題

 次に「竹島=独島問題」です。竹島は日本では島根県隠岐島町に属すると言い、韓国は慶尚南道鬱陵郡に属するということにしていますが、やはりこれも1860年代にイギリスが海図を作っていて、そこではリアンクール岩礁(Liancourt Rocks)という名前をつけています。
 竹島が非常にややこしいのは、この島を何と呼ぶのか、歴史的にかなり変遷があって、「松島」と呼ばれていた時期があったり、「いやいや松島は別の島で、竹島は別の名前だったのだ」とかいろんな説があります。しかし、ここも定住者がいたという記録がありません。
 日本では、江戸時代から明治初期は、隠岐島以北は「外国」であるという認識です。幕府の政策として、なるべく遠くに日本人を行かないようにしていたものですから、隠岐島から向こうは日本ではないのだと言っていたのです。では何処なんだ、と言った時にははっきりとした認識はないのです。少なくとも日本ではない、という認識でいたようです。
 1901年(明治34年)、当時朝鮮は李朝という王朝が治めており、大韓帝国と名乗っていました。1901年10月25日に大韓帝国は勅令で「欝陵全島と竹島、石島を鬱陵郡に編入する」と決めています。ただ、「欝陵全島と竹島、石島」と言った時の竹島は今の竹島を意味するのかどうか、結構議論があるそうですが、今回そこには踏み込みません。
 日本側で竹島をはっきりと認識したのは、1904年(明治37年)のことです。日本人の中井養三郎という人が──隠岐島の地元の人ですね。隠岐島のアシカ漁をやっている人が、日本政府に対して「りやんこ島」──この「りやんこ島」というのは、明らかにイギリス海軍の海図にあるリアンクール岩礁を意味しています。実は、地元の人も何と呼んでいいかはっきり分からなかったのです。ですからイギリス海軍が使っている海図にリアンクール岩礁と書いてあるから、それを日本語読みして「りやんこ島」というふうに名付けてしまったのです。
 これを、領土編入した上で10年間貸してくれ、というふうに日本政府に申請しました。尖閣の時とは違って日本政府は直ちに、1905年1月28日、当該の無人島を、「りやんこ島」と言うわけにもいかないので、初めて「竹島」と名づけて領有を閣議決定し、島根県に編入しました。
 しかし、当時の領土編入というのは、どんなやり方をしたのかというと、大韓帝国も日本もそこへ行って「ここは我が国の領土である」というような標柱を建てたのかというと、そうではないのです。尖閣もそうなのです。では国際的に発表したのかというと、発表もしていないのです。閣議決定したと言っても、その結果を全世界に示したのかというと、実は示していないのです。閣議決定したことは事実ですが、他国に知らせるということをきちんとしていなかったことも事実です。
 実は当時のアジアの国はそうなのです。欧米諸国ですと、ちょっとでも無人島だと思われる所にはすぐに標柱を建てたり、旗を立てたりします。なかなかがめついんです。これはやはり侵略の元祖ですから、一歩でも先に着いた方が領有を宣言して旗を立て、ここに来たということを証拠として残します。ペリーも、アメリカ人は小笠原だとか琉球にも来ているのですが、まず上陸すると旗を立てるんです。でも琉球では人が大勢いたので、旗は立てましたがさすがに領有宣言はできませんでした。

竹島の領有を閣議決定したのは、日露戦争の真っ最中

 実は竹島問題が非常にややこしいのは、やはりこの時期なのです。1905年1月28日というのは、日露戦争たけなわの頃なのです。この1月に旅順が陥落しています。この後日本軍は奉天の戦いに臨み、さらに5月には日本海海戦になるという、こういう時期です。
 そして9月5日には日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれますが、日露戦争は日本とロシアの戦争です。では韓国、大韓帝国は関係ないように思われますが、実はそうではないのです。この日露戦争の最中に日本は韓国に対する支配権をどんどん強めているのです。日本は日露戦争の最中に韓国と第1次日韓協約を結び、日本は財政顧問を韓国政府に送り込むのです。それからアメリカ人を外交顧問として入れさせます。アメリカは当時、日本を後押ししていますから。イギリス、アメリカは日本を後押ししている。

アメリカが日本を後押しした理由

 アメリカが日本を後押しするのには、理由があります。好き好んでやっているのではなく、満州に進出したかったからです、アメリカは。日本とロシアを戦わせて、日本が勝てばそれに乗じてアメリカも満州に進出する。そのためには韓国への影響力を強めておこうということで、外交顧問を送り込むということをやっていました。
 形の上では、日本をかなり応援する形になっています。もちろんアメリカは日露戦争で日本をかなりバックアップし、お金を──日本はお金がないのです。戦争を始めてからお金がないことに気が付き、当時の日銀副総裁であった高橋是清がヨーロッパへ借金に行きました。イギリスで初めて日本の国債を売ることに成功しました。イギリスは日英同盟を結んでいましたから、日本の国債を買ったのです。ところが一番沢山国債を買ってくれたのは、アメリカなのです。アメリカのユダヤ資本が非常に気前よく日本の国債をドカンと買ってくれたのです。
 ですから日本は、日露戦争の戦費の4割をイギリス、アメリカからの借金で賄うことができたのです。これがなかったら、日本は日露戦争ができなかったのです。このお金がなかったら、日本は武器弾薬をヨーロッパから買えなかったのです。武器弾薬がなければ、当然戦闘はできません。この借金は決定的に重要だったのです。この時にもっとも気前よくお金を貸してくれたのが、アメリカのユダヤ資本です。
 ユダヤ資本は、一般的にはこういうふうに説明されています。ユダヤ資本は、ロシアの反ユダヤ政策に反発して日本を支援したのだと。ところがこれもインチキなのです。というのは、別のユダヤ資本はロシアにお金を貸しているので、ユダヤ人資本家が義憤に駆られて日本を応援したのではなく、ユダヤ資本はその後の満州開発に期待していたのです。ユダヤ資本は鉄道王・ハリマンという人に投資をして、ロシアが作った鉄道を日本が分獲り、それをアメリカの鉄道資本と日本が共同経営をするという計画を、アメリカのユダヤ資本は持っていたのです。
 そのためにアメリカの鉄道王・ハリマンは、日露戦争の終わり際に日本にやって来てその話をし、当時の桂太郎首相は、日本に金がないものですから、これはいいね、アメリカと共同開発しましょう、と一度合意したのですが、ポーツマスの講和会議から小村寿太郎が帰ってきて、日本人が血を流して獲ったものをアメリカと山分けするなんてけしからん、と言って蹴っ飛ばしてしまうのです。アメリカの提案、つまり満州の鉄道をアメリカが金を出しても良いから共同開発しましょう、という提案を日本側は蹴ってしまったのです。この鉄道が後の南満州鉄道(満鉄)です。日本とアメリカが共同で満州に行きましょうという提案を、日本は蹴ったのです。ここから本格的な日米対立が始まったのです。こういう流れなのです。

韓国の外交権を奪った状況下で領有宣言

 この時も日本は、アメリカ、イギリスをバックにして韓国に対する支配権をちょうど強めている時期であり、この年1905年11月17日には第2次日韓協約を結びます。これは有名な条約ですが、これによって韓国は外交権を失いました。
 韓国と外国との関係を断ち切っている、まさにそういう中で竹島は日本領だぞ、ということになったのです。韓国が文句を言おうとしても、文句を言うチャンネルが無くなって、文句を言うのなら、諸外国にアピールしたいのなら日本を通じて言え、という形が出来てしまったのです。韓国の外交は日本が代行するというのが第2次日韓協約なのです。日本に文句を言うのに、日本に頼んだってしようがないですから、言いようがありません。そういう経緯があり、そのあと1910年、日本は実際に韓国を併合してしまいます。
 竹島の問題が「領土問題」として発生したのは1952年、戦争が終わったあと、韓国が竹島を囲い込む形で境界線を設定して、いわゆる李承晩ラインを設定して、漁船などを拿捕しました。その後、1954年には韓国が竹島に常駐守備隊を駐留させます。
 韓国では、「独島(竹島)は日本に奪われた最初の領土」なのだと言われています。こういう言い方なのです。教科書等でも強調されています。確かに、日本が韓国を併合するに至るちょうど出発点のところに、日本による竹島の領有宣言があるものですから、まさにこの時期にそれが行われたということで、韓国のナショナリズムを非常に煽ってしまう要因が実際にあるわけです。

「領土問題」の本質は、近代日本の膨張主義・戦争政策にある

 このようにお話してきましたが結局、歴史的に見た場合の「領土問題」の本質は何かというと、基本的には日本が近代において、膨張政策、戦争政策をとってきたということです。ですから竹島も尖閣諸島も、まさに戦争の最中に領有宣言をした場所なのです。軍事的に取ったということとはちょっと違いますが、しかしいずれにせよ戦争中であったり、あるいは植民地化の過程において領有宣言がされたということは確かなことです。
 戦争がらみではない領土編入というのは、千島列島です。元々幕末の日露和親条約では、北方四島までを日本領とし、樺太は「雑居地」というふうに決まっていたのです。雑居地というのは、どちらの国民がが住んでもよいという所なので、紛争の素です。ですから、ここははっきり線引きをしておかないと紛争の火種になるということで、当時の明治政府は、まだ明治10年にもなっていない時期ですから、いくらロシアに対抗しようとしても無理だということで、かなり現実的な措置を採ったのです。
 つまり樺太は全部ロシアに渡すが、その代わり千島列島は全部日本領にするという交換をしたわけです。1875年にこの樺太千島交換条約が結ばれました。戦争とは関係のない、話し合いによる領土の画定であり、これは近代日本における近代日本の領土画定のやり方としては、非常にスマートなやりかたをしたということになります。

事態を曖昧にしているのは、第2次世界大戦の戦後処理

 実は、「領土問題」の事態を非常に曖昧にしているのは、第2次世界大戦の戦後処理を日本が先送りにしてきたことです。領土問題はどこに書かれているかというと、ポツダム宣言なのですが、ポツダム宣言の領土条項というのは、実に簡単なんです。
 【参考資料2】に「ポツダム宣言」(1945年7月26日)がありますが、「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と書いてあります。ここで大事なのは、「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」というところです。「カイロ宣言」というのは【参考資料1】にありますが、1943年(昭和18年)の11月27日にアメリカ、イギリス、そして中国・蒋介石の間で調印され、発表されたものです。
 ここには「右同盟国(英、米、中)ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ 又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ」ということで、領土拡張は意図しないということを連合国の共通認識にしています。まあ、ソ連はそれを破ってしまいましたが、この後に。宣言はこの後に「右同盟国ノ目的ハ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域〔all the territories Japan has stolen from the Chinese〕ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」と続き、最後の一行で「前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と言っています。
 要するに日清・日露戦争の結果日本領になったものは一切剥奪するのだということを、カイロ宣言において明確にしたということです。これに基づいてポツダム宣言があって、そのポツダム宣言に基づいてサンフランシスコ講和条約(【参考資料3】)がある、という流れになります。
 このサンフランシスコ講和条約こそ「領土問題」の一番重要なポイントになるはずなのですが、先ほども言いましたように冷戦下における──冷戦下というか朝鮮戦争の最中ですから、戦争中という非常に異常な状態で、敵対している同士が講和条約の戦勝国側に入っているわけです。非常にややこしい関係です。
 「領土問題」の当事者であるソ連は、この条約に調印しない。それから「領土問題」の当事者である中国、これはどちらを中国の代表にするかということすら決められなくて、誰も呼ばれない。韓国、北朝鮮も、当時すでに国家として成立していたにもかかわらず、呼ばれていません。ですから、「領土問題」の当事者が日本側しかいないという、ある意味で異常な事態の中で領土の確定が行われました。
 ですから、これは、当事者が納得する厳密な領土画定になるわけがないのです。とりあえず決めるということになったのですが、結局、問題になりそうな所は、お互いに当事者がいないわけですから、はっきりとした線引きをしないままになりました。

大国の対立と利害が絡み合った「千島問題」

 また大国の対立と利害が絡み合い──例えば千島の問題ですが、そもそもソ連を対日戦争に誘い込んでしまったアメリカなのです。1945年2月ヤルタ会談の時に、当時のアメリカ大統領・ルーズベルトがソ連を対日戦争に引き込んだわけです。なんで引き込んだのかというと、話せば長くなりますので圧縮して言うと、ちょうど昭和19年、1944年から1945年の初頭に掛けて、日本軍が中国で「大陸打通作戦」という40万人を動員した大作戦をやります。作戦的には、華北から華南まで日本軍が駆け抜けていく(南下していく)という大作戦を、一応計画通り実行したんです。
 当時のアメリカは驚きました。日本軍は南方で劣勢なのに、こんな中国で大部隊が日本本土から離れていくという作戦をやっている。日本は結構余裕があるのかもしれない、というふうに情勢判断を大きく間違えます。1945年のヤルタ会談の時点で、結構日本は戦うかもしれないぞ、少なくともあと18ヶ月ぐらいは、1年半ぐらいは戦うであろうという判断をアメリカはするのです。日本軍の実力を実態以上に大きく見てしまったのです。これは大陸打通作戦の「成功」によるものです。
 それでアメリカはどうしたかというと、日本に上陸したりすると結構きついことになる、なるべく犠牲をソ連に分担してもらおうと。これはアメリカの基本方針なのです。例えばヨーロッパ戦線ではなるべくナチスドイツをソ連に叩かせて、人的犠牲はなるべくソ連に払ってもらおうとしました。イギリス、アメリカは空爆でドイツを攻撃しますが、なかなか上陸作戦はやりません。ソ連は、人的犠牲はみんなソ連が負っているではないか、いつになったらイギリス、アメリカは地上戦に参入するのだ、と焦れます。アジアでも同じです。なるべく人的犠牲は中国に負ってもらうというのがアメリカの基本方針です。
 で、まだ日本が粘りそうだから、ソ連を呼んで、人的犠牲は中国とソ連に負ってもらおうとしました。これは明らかです。ところがこれは間違った判断だったのです。日本はこの後、急激に崩壊に向かいます。そうすると、ソ連を呼びこむ必要はなくなってくるのです。ですからアメリカは原爆開発を急いで行くわけです。原爆を落として、早く日本を降伏させるという路線にアメリカは、トルーマン大統領になってから一気に変わっていきます。
 ソ連を引き込んだのはアメリカです。アメリカとしても、ソ連が千島列島まで全部占領してしまったのは、連合国の大方針からすると明らかにやり過ぎなのです。領土を拡張しない、ということでしたから。そこに連合国側の正義があったはずなのですが、そうでなくなってしまったわけです。
 さりとてアメリカが中心になって、ソ連はやり過ぎだから出ていけ、と言うかというと、大国同士の利害はそれぞれ分割していて、そこまでは踏み込まない。そういう点では、大国の対立と妙な協調というのがこのサンフランシスコ講和の場でもあるのです。ですから領土問題の微妙な部分は「明記しない」という棚上げ方式がとられました。肝心なことは何にも書いていないという、不思議な領土画定条項になったのです。
 こういう状態で、結局それは是正されないまま、ソ連との間では若干の交渉が行われましたが、それ以外のところでは、そもそも不完全に講和条約をベースに議論がされてきましたから、本当はそこを正さなければいけなかったのに、何にも書いてないことを無理やり解釈してきたのです。書いてないからこっちなのだ、とか。そういう解釈をやってきたものですから、進まないわけです。

日本の近代160年、日本は中国や韓国との付き合い方をずっと失敗してきた

 現在は、世界的不況で、日本では大きな震災があり、1920〜1930年代と非常に似通った状況があります。領土・権益問題は1920年代にも先鋭化しました。当時でも、現在でも、いずれも中国情勢です。中国情勢を発端とする緊張関係です。
 考えて見ますと、日本の近代160年ぐらい──どこから近代とみるかということですが、一応ペリー来航からというふうに考えてみると大体160年ぐらいですが、どうも日本は中国との付き合い方をずっと失敗してきたのです。最初は欧米列強と一緒になって中国を侵略し、そのうち欧米列強を排除して自分だけでやろうとして失敗する。その間、欧米列強のスタンスは、最初のうちは日本を後押ししているのですが、日本が中国の独占にかかると、今度は中国を支援して日本と戦わせるというやり方を採りました。
 ですから基本的に欧米列強の対アジア戦略というのは、日本と中国を一体化させない、という路線で貫かれているのです。もう一つは、中国とインドを結びつけない、ということです。
 アヘン戦争以来、イギリスは中国における侵略戦争には必ずインド兵を連れていくのです。いかにも悪いのはインド人だというふうに見せながら、中国で戦争をしているのです。イギリス人はほとんど前面に出て行かないのです。ヨーロッパの植民地支配を目の当たりにした当時の人たちは、警官とかホテルの門番などいかめしく立っているのはみんなインド人だということに気づかされます。中国人の恨みは欧米人にではなく、むしろインド人に向けられます。これで上手くインド人と中国人の対立は根深いものになるわけです。
 日本と中国も、欧米列強は常にどちらかを支援するという形でずっときたので、結局中国と日本も分断されているということなのです。
 これは近代の歴史、160年ぐらいを振り返ってみると、これは明文化された戦略があるわけではないけれども、結果的にそういうふうになっていることは確かだと思います。
 そういう分断戦略というのが、実は今でも確実に行われているということです。ですから、日本と中国との間の関係というのが悪くなったときに、アメリカがどう出てくるか。結構親切顔して、分断する方向に進めているのではないかというような気がしてなりません。

1920〜30年代と現代の酷似

 それから1920〜30年代と現在の類似点は、政党政治の混迷です。これはまた非常に似ているんです。政党政治に任せておけないからということで、1920〜30年代には「国家改造」をめざす人たちが出てくるのです。当時は「昭和維新」という言い方がされました。昭和維新というのは、もともと明治維新は未完成だという前提なのです。明治維新は「一君万民」の世の中を作るはずだったのに結局、財閥だとか藩閥だとか、軍閥だとかを作ってしまったと。これは面白いですよね、5.15事件や2.26事件をやった軍人たちが軍閥を批判するのです。明治維新は未完成に終わった、だから自分たちがそれをもう一回やり直すのだ、それが昭和維新だ、という考え方です。
 今の「平成維新」を唱えている人たちがどういう考え方なのかよく分かりませんが、少なくとも昭和の戦前期においてはこういうやり方でした。それは、理念の上では平等社会を作ろうとするのですが、天皇制が大前提にはありますから平等社会などできるわけがなくて、結局権威主義的な体制を強化するということになりました。
 私たちが歴史から学ばなければいけないのは、この時に上からの強権的支配が強まっていくわけですが、同時にナショナリズムをテコにして、国民の間、横の間で何かちょっと違ったことをやる人を「非国民」だとか、「国賊」だとか言って排除する体制ができて行く。ここが恐ろしいのです。自分たちの中でどんどん異端者を排斥して、結果的に上からの圧力と横からの排斥と、この両方から戦争に反対する人たちを潰していってしまうということになりました。
 日本社会というのは、こういう面があるのです。上からの押さえつけだけじゃなくて、横でお互いを縛りあってしまう。今のマスコミの報道を見たらそうですね。まったく横並びで、同じことを報道して、違うものが現れると排除していくというところがあります。こういうことになってはいけないということです。

自民党改憲草案の言いたい放題

 安倍内閣は改憲案を示しています。これは安倍内閣ができる前の2012年4月27日に自民党が新しい改憲案として発表したものです。自民党は2005年にも改憲案を作っていますが、2012年バージョンはもっとすごいです。2005年版から見ると、言いたい放題です。天皇の元首化をはっきりと謳っていますし、国防軍の設置、そして集団的自衛権ということ。【参考資料4】に自由民主党憲法草案のほんの一部分を挙げておきましたが、2005年バージョンに比べると非常に踏み込んでいます。「国防軍の保持」が、第九条の二項という、今まで戦力不保持が書かれていたところに国防軍を入れるという凄いことにことなっています。それでまったく同じ第九条二項だというわけですから、これは大変な心臓です。
 また第九条の二の3には、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」──これはまさにイラクへの派遣などが想起されているわけですが、実際にアメリカ軍とともに行動するということを想定しているわけです。それから5には、「法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く」──これは軍法会議です。あるいは軍律会議という言い方もできるかもしれませんが、民間人もここで裁こうということです。軍人だけでなく、公務員も裁くと言っていますから、単なる軍人を裁くための軍法会議ではありません。それを置くこと自体、現在の憲法の考え方とは正反対です。さらにそこから踏み込んで行こうと。当然、付随してスパイ防止法とか、そういうものが次々に作られていくことは明らかです。
 そういう意味では、これは相当踏み込んだ──踏み込んだというような評価をしてよいか分かりませんが、そういう改憲案であることは間違いありません。

「領土問題」紛糾の元凶は、当事者抜きに決められた講和条約──未着手・未完の「戦争の後始末」を進める

 時間がなくなってきたのでまとめに入りますが、「領土問題」紛糾の元凶は、当事者抜きに決められた講和条約にあることは確かで、不完全な講和条約をずっと正さず来てしまったというところに大きな問題があるわけです。
 つまり、未着手・未完の「戦争の後始末」です。実はこれは他にもいっぱいあるのです。いっぱいあるのですが、まさに一つの大きな表れとして「領土問題」が噴出してきたのです。「領土問題」は、これほどエキサイトしているわけですから、「領土問題」を領土問題として解決することは、当分不可能です。こんなにお互いにエキサイトしている時に、ナショナリズムを背負って外交交渉をやったって、お互いに一歩も引かないのは当たり前のことです。「領土問題」を解決するのは、今の段階では不可能です。
 長年いがみあってきた国がどうやって領土問題を解決してきたのかというと、いろいろ先例があります。例えば、フランスとドイツの間のアルザスの場合、ずっと取ったり取られたりでやってきました。それから意外なことに、旧ソ連と中国の間のダマンスキー島の問題。これは何となく今は上手くいっているのです。なぜかというと、領土問題として解決しようとしていないからです。お互いに共同開発路線で進めているからです。ヨーロッパでのそういう積年の領土問題というのも、基本的に領土問題として無理やり解決しようとしないで、これをそこに住んでいる人たちの意思と、両国の最大の利益はどこにあるのか、ということで、ある意味で共同開発問題として再定義するのです。こういうやり方です。
 概ねこれは上手く行っています。もちろん、上手く行っていない例もあります。その典型はパレスチナ問題です。泥沼状態になってしまっているところもあるのですが、しかしフランスやドイツのように積年の恨みのこもった場所を、無理やり国境画定というやり方ではない方法で解決しようという試みがあるということは、参考にして良いのではないかと思いますし、中国だってロシアとの間ではそういう形で話を進めたりしているわけです。
 ところが今、日本政府がやろうとしていることはまったく逆の方向で、危機を煽り立てて軍隊を作り、さらに軍事的に対峙して行こうという方向であるわけです。その軍拡が、アジアの軍拡、世界規模の軍拡の連鎖に繋がっていくことは明らかです。この時期にあえて北朝鮮が原爆実験をしたりして非常に緊張した状態ではありますが、そこに力には力で、日本も核武装すべきだとか、そういう方向で解決の道を見出そうとすると、これは日本の近代160年の対中国、対朝鮮半島政策の失敗──こことずっと上手く賢く付き合ってこられなかったことを、また繰り返してしまうのではないかと思います。
 時間がきましたので、私からのお話は以上にさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

質疑応答

【質問1】日本ではいま、確かにマスメディアが危機感をあおって排外主義やナショナリズムを高揚させようとしていますが、中国や韓国でも同様なことが起こっています。中国や韓国が危機感やナショナリズムを煽ることに、どういうメリットがあるのでしょうか。

山田;中国や韓国も随分ナショナリズムを煽り立てています。インターネットなどでもすごくエキサイトしています。大体ナショナリズムというのは、国民の不満のはけ口ですね。例えば中国でデモをやったら拘束されちゃいますが、反日デモだったら許されるという枠組みが、ガス抜きの形のようにあるのです。
 そういう形で非常にナショナリズムが高揚しているのはなぜなのか。日本そのものの問題もあるのですが、中国や韓国におけるいろいろな国内の閉塞状況であったり、あるいは格差社会の進行であったり、それをある程度私たちが知った上で、形の上では反日デモのような形になっていますが、この背景には何があるのかを冷静に見ていかなければいけないと思います。
 かなり無茶な運動もあるように思いますが、それも中国や韓国における社会のはけ口の一つなのだと割り切って良いと思います。但し、割り切った挙句、実は日本には何の問題もないのだ、日本のかつての戦争とか植民地支配とかを考える必要はないのだ、ということではないのです。そこはあくまでこちらできちんと押さえたうえで、実態と離れたところで──日本でもそうですが、ナショナリズムというのは利用されているんだ、というふうに少し醒めて見てもいいのではないかと思います。  

 
【質問2】日本政府は「領土問題は存在しない」と言っていますが、それはなぜですか。何を狙っているのでしょうか。

山田;「領土問題はない」という言い方は、「領土問題はある」という表明なのです。これは歴史的に見ても明らかで、そんなことは問題以前なのだ、問題があるという以前の問題なのだということを、外交的に強調するときの、独特のパフォーマンスです。「領土問題がある」というふうに言ってしまうと、次の手を打たなければならなくなるという自縄自縛に陥って、手が打てなくなってしまうので、とりあえず何もやらないためのレトリックとして、「領土問題はない」と言っているのです。
 放っておいてもナショナリズムは高揚してしまうので、今度はそれをどういうふうに誘導していくのかが次の問題になるとは思いますが、しかし「領土問題はない」と強調している場合には、必ず「ある」という表明の、外交的な言葉遣いであるということです。

【質問3】中国は実際に軍拡を進めていますが、日本もそれに煽られてお互いに軍拡政策を進めようとしているように見えます。私の周りでも尖閣問題などでナショナリズムに陥りやすくなっています。それから北朝鮮がミサイルや核実験を行ったことで、日本も核武装しなければならないという意見が出てきて、軍事ファシズムの土壌が作られようとしています。これらの点についてどう考えれば良いのでしょうか。

山田;中国の戦略というのを、私たちはきちんと捉えていかなければいけないと思います。中国がどんどん膨張主義的に軍備拡張を進めていることは事実です。中国の軍事力がどんどん増強されていることは間違いありません。しかし、その特徴を見ていかないといけません。
 どういう特徴があるかというと、中国の船がちょっとでも出てくると、外洋艦隊化しているとか、外に進出しようとしているというふうに言うのですが、いま外洋に出て行こうとするときにポイントが二つあります。大きな海軍を作って外洋艦隊化するために必要なのは、空母と原子力潜水艦なのです。これがなければ外洋艦隊化は不可能です。
 実際に世界に展開できるだけの航空母艦と原子力潜水艦を持っている国は、アメリカとロシアしかありません。中国は世界第二位の軍事費を使いながら、原子力潜水艦は8隻しかないのです。潜水艦というのは、大体三交替で動いています。1隻目は軍事行動し、2隻目は待機、3隻目はドッグで点検しているという、3隻を一つのチームとして動いています。ということは、8隻持っていても外洋に展開できるのは、多くて2〜3隻ということになります。2〜3隻で世界的に影響力を行使できるかというと、確かにミサイルを積んでいればそれでもかなりの影響力を行使できますが、一応これは政治的なものです。あるぞ、常に2〜3隻外洋に出ていって、どこからミサイルを撃つか分からないぞ、というジェスチャーとしては有効なのです。
 しかし、本格的に軍事的に対峙しようとしたら──8隻と言っても全部ミサイルを積んでいるとは限りません。つまり、ミサイルを積んでいる潜水艦を護衛するための潜水艦が必要なのです。原子力潜水艦を通常型の潜水艦で護るということはできません。なぜなら、原子力潜水艦は理論的にはいつまでも潜行できますが、通常の潜水艦はディーゼルエンジンに酸素を使いますから、必ず水面に浮上(あるいは水面ギリギリの深度まで浮上)しなければいけない。浮上する潜水艦を引き連れて原子力潜水艦が行くということは、無駄なのです。8隻の中には必ず護衛のための潜水艦がいますから、結局ミサイル原潜というのは非常に数が少ないということになります。
 ですからこれは、持っていることで政治的影響力を行使している、ということです。ここは中国は賢いのです。ここで軍拡競争になると、かつてのソ連の轍を踏むことになる。かつてのソ連はアメリカと全面的に核軍拡競争をやって、それで経済が破綻したのです。そういう点では、ソ連の轍を踏むまいとしていることは明らかです。全面的にどんどんアメリカと正面切って核軍拡競争をやろうとしていないのです。
 そこには見た目の膨張と、巧みに計算して無駄な軍拡はしないで、なおかつ影響力を強めようという、なかなかしたたかな戦略があるのです。無暗矢鱈に増強しているということではなくて、費用対効果を考えながら、実態以上に大きく見せるという、なかなか巧みなやり方をしています。
 私たちはそれを見抜いていかないといけないのです。大きく見せるというのは、一つの軍事戦略です。旧日本軍の軍事戦略は逆でした。なるべく小さく見せておいて、ガーンとやっつけてやるという、これは旧日本軍型発想ですが、中国は昔からの大国ですから、実態以上にでかく見せて周辺諸国を恐れ慄かせるという伝統的な軍事戦略です。
 恐れ慄く必要はないのです。実態をきちんと掴んでいけば、実態以上に恐れる必要はありません。中国は、アメリカと正面衝突するような軍事戦略を採っているわけではないのです。例えば、空母がずいぶん話題になりましたが、あれはウクライナで一旦スクラップにした奴の再生物ですから、軍事力としては非常に怪しいものなのです。しかし、持っているぞ、と見せるところが非常に中国の上手いところなのです。そういう点では、中国の内実をきちんと押さえていくということです。ナショナリズムに駆られて針小棒大に中国の脅威を大きく見すぎてはいけない。ただ中国は今、経済力がありますから、それなりに軍事力を大きくしてはいます。だから、その辺りのバランスです。
 中国は世界で一番国境線をたくさん持っている国です。他国に一番多く接している国です。ですから、それなりの陸軍とか、それから国内問題、民族問題を抱えているので、結構大きな軍事力を持っているのです。そういう点では結構な軍事大国であることは間違いないのですが、したたかな戦略を駆使する相手に対して、単純なやり方で、相手が増やしたからこっちも増やすみたいなやり方では、およそ対抗できないわけです。
 伝統ある軍事大国で、したたかな国ですから、それに対抗するには相当知恵を使っていかなければいけないのですが、安倍内閣とか自民党幹事長の石破茂さんを見ていると、あまり知恵が有りそうに見えません。相手が強ければ強いほど、力で対抗しようとしても駄目なのです。そのためにはきちんとした情報を掴んで判断する必要があります。この前、レーダー照射事件というのがありました。中国の艦艇から自衛艦にレーダーが当てられたのですが、それが首相官邸に届くまですごく時間がかかっています。そういう部分がきちんとできていないのです。正面装備ばかりに気が取られて軍拡を行っていますが、中身が非常に虚ろで、きちんとした情報の伝達すらできていない。そういう日本側の、なにか張りぼてみたいな軍事力で、結構強いことは言っているけれども現実には機能していないところがあるように思います。
 その辺りは私たちもきちんと実態を捉えて──どうしても今の流れで行くと、自衛隊から国防軍にして図体をでかくしていこうというベクトルが強まっていますから、それにどうやって対抗していくか。
 実際に日本は、世界で5〜6位の軍事費を使っているんです。使っていて、なにかあまりこう効果が上がっていないように見えるというのは、宣伝なのです。小さく見せて、知らないうちに大きくなっているという戦略に、私たちも乗せられているところがあります。
 ですから、中国の戦略の実態をいろんなチャンネルで──どうしても今のマスコミは、何か同じ方向で同じ情報を嫌というほど流すという状態になっていますが、例えばこの集会のような企画があったり、ネット上でもいろんな情報が流れていますので、私たち自身もアンテナを広げて違う質の情報を得ていかなければいけないと思います。
 もう一つ、北朝鮮は一人で戦争をやっている国なのです。戦争をやって、国内の引き締めをやらざるを得ないのです。本当に国民の多くが非常に厳しい状態であるにもかかわらず、大変な金をかけて原爆の開発をやっている。今のまま進むと、原爆はほぼ完成した段階にあると思いますが、原爆を起爆剤にして水爆が作れるのです。水爆というのは、原爆を起爆剤にしているのです。原爆のエネルギーを使って核融合を起こさせるという仕組みなのですから、放っておくと水爆製造に進んでいくおそれがあります。まったくそんなものが必要ないにもかかわらず、どんどんそっちの方へ進んで存在を大きく見せようとする、そういう困った状態になっています。
 これは、締め付ければ直るかというと、どうもそういう問題ではなくて、なるべく人的交流をして、いろんな情報を北朝鮮の中に知らせてあげるということが大事です。そうしないと、あの国は全然変わらない状態です。そうやって少しでも内部に変化が起きてきた方が、おそらくそこに住んでいる人たちにとっても良いのだというふうに思います。固い殻に包まれているものを無理やりトンカチで殴っても、ますます殻を厚くするばかりで、なんにも良くはならない。多分、ここもやはり頭の働かせどころ、知恵の働かせどころだと思います。
 どうも日本には近代160年間に、近隣諸国と上手く付き合うという知恵が発達してこなかったのです、残念ながら。遠くの大国と上手くやるという知恵しか働いてこなかった。歴史の流れを見ると、私たちは何に頭を使っていかなければいけないのかということを、考えなければいけないのです。ですからこれは、いい機会なのです。改憲の危機ではありますが、危機だ、危機だとばかり言っているのではなく、自分たちの発想に何が欠けていたのかということを見直すことにしていく一つのチャンスだと思います。

【質問4】サンフランシスコ条約に領土問題解決のカギがあるということを初めて知りました。アメリカや中国、日本で、そういう意見を発信している人はいるのでしょうか。

山田;どこにも居ると言えば居ます。歴史を客観的に見ようとすると、多くの人がそこに行き着いてきます。不完全なサンフランシスコ講和条約の体制を正のものとして大前提にして何でもやって行こうとすることが、そもそも無理なのです。しかも講和条約自体が異常な事態の中で結ばれたものであるので、条件がどんどん変わっていくにもかかわらず、そこで決められたことを墨守していくというのは、そもそも可笑しいのです。
 この発想は、結構多くの人が言っています。言っていますが、まだまだ一般的ではないということは確かです。そういうことが、そもそも学会レベルで、学問のレベルで言われ始めたのは1990年代からです。まだ20年弱ぐらいのことですが、この認識がもっと広まり深まってほしいと思います。そしてさらに私は、近代160年ぐらいの日本の在り方──中国や韓国との付き合い方を何か間違えてしまった歴史というものをきちんとそこに織り込んで、これからの付き合い方を考えていかなければいけないと思います。
 歴史というのは、過ぎ去ったことなのですが、実は非常に多くの教訓というか、私たちに知恵を与えてくれているんです。それを生かすか生かさないかは、まさに私たち次第です。いくら大事なことがあっても、日本人の得意技ですぐに忘れてしまう。どんなに犠牲を払ったことでもさっさと忘れてしまうということであってはいけないわけです。
 何か事あるごとに──こういう集会の企画があるときにはどういう事件から何年経ったのでという企画のやり方をよくしますが、それは無意味ではないのです。私たちはどうしても日常生活の中で歴史から何かを学ぶということを忘れがちですが、こういう集会などで何かきっかけを掴み、市民のレベルでそういう歴史認識が少しでも広まっていくと、新しい発想であったり、新しい運動が生まれてくるのではないかと思います。

司会;山田先生、ありがとうございました。非常に教訓的で面白いお話だったと思います。山田先生に大きな拍手をお願いいたします。(大きな拍手)

資料

【参考資料1】カイロ宣言(1943年11月27日調印、12月1日公表)〔部分〕

 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ 右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ 又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ 右同盟国ノ目的ハ1914 年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域〔all the territories Japan has stolen from the Chinese〕ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ 日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

【参考資料2】ポツダム宣言(1945年7月26日)

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

【参考資料3】サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印) 第2章 領域

第2条
 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 (d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす1947年4月2日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
 (e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
 (f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第3条
 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

 出典:上記参考資料は藤原彰・長谷川正安・塩田庄兵衛『戦後史資料集』(新日本出版社、1984年)所収。

【参考資料4】自由民主党憲法草案(2012年4月27日決定)

第二章
安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
(領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。


このサイトに関するお問い合わせは webmaster@kenpo-9.net へどうぞ。

Copyright © 2013 映画人九条の会 All Rights Reserved.