12・8映画人九条の会第2回交流集会/講演

南京事件70年─南京事件の真実は

山田 朗=明治大学文学部教授

2007年12月8日(土)東京・文京区民センター2A

 みなさん、こんにちは。ご紹介いただきました山田です。今日は12月8日ですから、太平洋戦争が始まってちょうど66年目です。
 先ほど小山内美江子さんのお話がありましたが、66年前の今ぐらいの時間に、ようやく国民にどこで戦争が起ったのか大本営から発表されました。最初の朝のニュースでは、「西太平洋上において米英軍と交戦状態に入れり」という発表でした。「西太平洋上」と言っても、どこかということはこの時点では発表されていません。午後になって、それはハワイだということが発表され、戦果があったのかどうかは、夜にならないと発表されませんでした。ですから12月8日の時点では、どこで戦争は起こったのか、戦果があったのかどうかということは、しばらくは分からなかったのです。
 小山内さんが聞いたというラジオの臨時ニュースは午前7時のものだと思います。大本営の発表は、午前6時に行われています。陸軍の大平大佐という報道部の人が、「大本営陸海軍部発表」と言って記者の前で発表するシーンが今でもときどきニュース映画を使った映像の中に出てきますが、実はあれは本当の発表ではありません。本当の発表は6時にやったのですが、ムービーカメラが動いていなくて、あとからもう一度発表し直してもらった。それが残っている映像です。本当の発表じゃないものが、ニュース映画として流されて、それが現在ではあたかも本当の発表のように伝わっている。ですから、本当の発表のときに撮った写真と、人の並び方などが微妙に違っています。
 別にあれは嘘だったという話をするつもりではないのですが、当時から映画の持つ宣伝効果というものを大本営も考えて、もう一回発表しようということになって、それで大平大佐はちょっと声が裏返ったりして、興奮した感じの発表になっている。それが今からちょうど66年前のことです。

南京事件からわずか4年で太平洋戦争

 それよりさらに4年遡る70年前が南京事件です。1937年に日中戦争が全面化して、太平洋戦争、対英米戦争が起こるまで、わずか4年です。4年間で状況はそんなに変わったのです。
 1937年12月に南京が陥落し、日本国民の多くはこれで戦争が終わったと感じた。蒋介石政権は一旦、首都を内陸部の漢口に移し、さらに奥地の重慶に移していたので、陥落した時点では南京は首都ではなかったのですが、それでもずっと首都であった所を占領したということで、これで戦争は終わりだ、と提灯行列も行われて、盛り上がったわけです。
 ところが、その時点でこの先、アメリカ、イギリスと戦争になるなんていうことを考えていた人がどのぐらいいたか。歴史的に、たった4年間で日中戦争から対英米戦争へ突入していくわけですが、それはこの南京陥落のあと日本はずっと日中戦争をやっていって解決がつかなくなるからです。
 日本側は当時、これはイギリス、アメリカが蒋介石を支援しているからだ。蒋介石政権だけだったら抵抗できないのに、英米がうしろで援助しているからこの戦争は終わらないんだ、と考えていました。援蒋ルート(蒋介石を援助しているルート)を絶てばこの戦争は終わると。
 ところが援蒋ルートというのは、仏印、現在のベトナムから、あるいは当時のイギリス領であったビルマ(現在のミャンマー)から伸びているわけですから、またアメリカもかなり物資を補給しているわけですから、その英米仏に圧力をかけないと日中戦争は終わらない、と考えた。中国との戦争なんですけど、悪いのは英米だと、段々そっちの方に八つ当たり気味になっていき、どんどん日本と英米との関係が悪化して行ったのです。
 ところが、単独ではやはり英米相手には戦えない。それで三国同盟——ドイツと同盟を結んで、英米に圧力をかけるという路線に進んでいくわけです。ですから日中戦争と、対英米戦争=太平洋戦争というのは、三国同盟をつなぎにして繋がっていくということなんです。
 その日中戦争初期に起きた大事件が、南京事件です。70年前の12月13日に南京は陥落します。ちょうど70年前の今頃(12月8日)は、日本軍が南京めがけて殺到している状況だったのです。

南京大虐殺をめぐる争点

 南京事件をめぐってはそれを否定するという立場の方もいて、そういう映画も作っているようですが、これは結構、対立しているところがあります。どういうところが対立しているかというと、レジュメでいくつか争点を挙げました。

  1. 犠牲者の数(数万人〜30万人超の諸説あり)が確定できない理由
  2. 「事件後、南京の人口が増えた」という説の真偽
  3. 「ゲリラ(便衣兵)殺害は戦闘行為」という説の真偽
  4. その他さまざまな否定論・「まぼろし」論はなにゆえに出てくるのか

 まず、犠牲者の数がどれくらいなのかということですが、中国は公式的には30万人というふうに発表しています。これは何がベースになっているかというと、東京裁判のときに出た26〜27万人という犠牲者の数です。当時の埋葬記録を合計すると26〜27万という数字になり、これがベースになって、30万人という数字が出ています。
 しかし、これにはいろんな説があって、日本の歴史学の研究者では、10数万から20万人ぐらいじゃないかという人が多いです。また、虐殺とは何かという定義をいろいろと細かくしていって、捕虜を殺したのは一種の戦闘行為であり、戦闘行為は虐殺ではないと言う人もいます。そうなるともっと少なくなって数万人になります。極端な場合、なかったという人もいるんですが、これはどう考えてもあり得ません。これはあとからお話しますが、現にそこで、日本側の人間でその光景を見た人が記録(日記)を付けています。これはリアルタイムで付けられた記録で、しかも複数の人がその現場を見ています。
 それから、事件後、南京の人口が増えたという説があります。これは大抵の否定派の本に書いてあります。学生でそれを真に受けている人がいますが、実はここで言うところの「南京の人口」というのは、南京の一部分の人口のことなんです。
 南京周辺の大雑把な地図を載せていますが、南京市というのは非常に広い領域で、その中に城壁で囲まれた南京城区と言われる部分があります。普通、我々が南京としてイメージしているのは、この南京城区です。さらにその中に、国際安全区と呼ばれる難民避難地区があります。で、人口が増えたというふうに記録されているのは、この国際安全区なのです。つまり、南京全体(南京市あるいは南京城区)の人口が事件の前より増えたというような話ではなくて、多くの人が避難してきたから、その安全区の人口が増えたというだけのことなんです。
 これを、南京の人口が事件の前より増えたというふうに真ん中を省略して語ってしまって、人口が増えたぐらいだから虐殺はなかったんだ、という話に繋げている。ですから南京と言ったときに、どこを指すかということを明確にしないで議論しているから、うっかりすると騙されてしまうのです。
 もう一つ、ゲリラ──当時の言い方ですと「便衣兵」と言うんですが、その殺害は戦闘行為であるから虐殺ではないんだ、という人がいます。しかし当時、日本の兵隊たちが実際にどういうことを見たのか、この「ゲリラの殺害」がどういうものであったのかという実態を、あとでお話します。

どうしてこんなに否定論が出てくるのか

 その他、様々な否定論がありますが、一つ一つ反論していってもいいのですが、時間もありませんので、どうしてこんなに否定論が出てくるか、ということについてお話します。
 確かに曖昧なところはあるんです。犠牲者の数が何人なのかはっきりしないからです。どうしてはっきりしないのか、あとで実際に日本兵が見た光景をお話しますので、それで大体原因が判ります。結論から言いますと、遺体を揚子江に流してしまっているんです、大量に。ですから、調べるにも調べようがないんです。南京で亡くなった人は、そこで遺体が確認されて埋葬記録が残る。ところが、これは戦闘で亡くなったのか、虐殺なのか、なかなか区別ができません。そして南京というのは揚子江に面していますので、主に虐殺された人の遺体というのは組織的に河に流されてしまった。ですから、その数が掴めないのです。
 でも、数がはっきりしないからと言って虐殺は無かった、というのは極端な話です。実は犠牲者の数がはっきりしないというのは、どんな戦争でもあることです。例えば沖縄戦の犠牲者の数も正確には判らない。なぜなら、戸籍まで焼かれてしまったからです。ですから、〈平和の礎〉には、名前が刻まれている人もいますし、名前が判らず「誰々の子」と書かれている人もいます。そういうふうに、実は犠牲者の数が正確には判らないというようなことは、むしろ普通のことなんです。

その時、南京にいた日本兵は何を見たのか

 今日お話したいのは、現場で、そこに居た人が何を見たのか、ということです。これは大事なことです。先ほどの小山内さんのお話も非常に迫力があったのは、実際に現場で小山内さんがご覧になったことだからです。
 当時、南京大虐殺の現場を多くの日本人が見ているはずなんです。当然そこには多くの日本兵が参加しているわけですから。実は新聞記者も見ているはずなんですが、新聞記者でそれをはっきり記録に残している人はいません。ましてや当時の新聞には、南京に行った記者のそのような報告は載せられていません。しかし、載せられていないから、その人たちが何も見なかったのかというと、決してそうではありません。当時、軍人が残した日記の中には、しばしば新聞記者が出てきます。ですから、新聞記者が現場にいて状況を見ていたことは確かなんです。しかし、戦争と言論の統制というのはセットになっていて、そこで見たことを新聞記者は書けないんです。それを記事にしたところで採用されないわけですから、最初から記事にしないんです。
 まず現場を見てみようと思います。レジュメに南京の地図があります。南京というのは、ちょうど揚子江に面していて、日本軍はこれを包囲するように南の方、それから東の方、そして揚子江の北側からも侵攻して、まさに南京を包囲する形で布陣しています。
 それで、最初に日記を残しているのは、16師団──16師団というのは、地図に16Dと書いてある部隊です。南京の東の方から侵攻していった師団です。これは京都の師団です。この師団長が日記に残しているんです。南京攻略戦を指揮した第16師団長、中島今朝吾という人の日記です。

南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記
出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。

 1937年12月13日の日記です。師団長ですから当然、師団司令部で指揮を執っているわけです。13日は南京陥落の日ですから、南京のすぐ外側に司令部があったと思われます。「一、本日正午、高山剣士来着す」(読み易くするため、日記を現代用語ふうに直しています。以下、日記は同様)。──剣士というのですから、すごい剣道の達人なんでしょうね。「時あたかも捕虜七名あり。直ちに試し斬りを為さしむ」。まず司令部に連れて来た捕虜7名を試し斬りさせた。その剣士という人の腕前を確かめるために、それだけのために捕虜7名を斬らせたのです。
 「到るところに捕虜を見、到底その始末に堪えざる程なり」。投降した中国兵がいっぱい居て始末に負えない、ということです。その次ですが、「大体、捕虜はせぬ方針なれば」と言って、捕虜に取ることはしない方針だ、と言っています。国際法上はすでにジュネーブ条約というものが1929年に締結されています。日本は批准していないのですが、戦時においては捕虜を確保した方がそれを保護する義務がある。しかし、捕虜はしない方針だ、と言うんです。「片端より之を片付くることとなしたれども、中々実行は敏速には出来ず」。捕虜にはしない、片っ端から片付けろ、ということです。「片付ける」ということはどういうことなのか、段々判ってきます。
 「一、佐々木部隊」──これは16師団に属している一つの大隊なんです。「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る」。ここで「処理」と言っています。一個大隊は800人ぐらいですが、その人数で1万5千人を処理したと言っている。それから一中隊、200人ぐらいでしょうか、それで1300人ぐらい処理した、と言っています。
 で、どんどん捕虜が増えてきて、「この七、八千人これを片付くるには、相当大なる壕を要し」──壕というのは、穴のことです。「中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に誘(いざな)いて処理する予定なり」。16師団は内陸の方から攻めてますから、河がない。そうすると「処理する」というのは、殺害して穴に埋めてしまうということです。7000〜8000人の人間を埋める穴はないから、分割して埋めると言っているわけです。こういう遺体は、のちに掘り出され骨になったものが発見されています。
 ここでは計画的に、最初から捕虜にしないで殺害して埋めてしまおうということを、師団長が言っているわけですから、この方針であったということが分かります。
 もう一つ、別の日記があります。
 今のは師団長、中将ですから、偉い人です。現場に直接行って殺しているところを見ているわけではありません。ですから、現場で見たわけじゃないじゃないか、という批判もあるかもしれませんので、もう一つ別の日記を紹介します。第13師団山田支隊、これは山形の部隊です。この部隊に所属した現場指揮官、将校が日記をつけています。それが次の第13師団歩兵第65聯隊第4中隊の少尉であった宮本省吾という人の日記です。

現場指揮官1/第13師団歩兵第65聯隊第4中隊少尉・宮本省吾の日記
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。

 これは南京陥落後のものです。1937年12月16日。「警戒の厳重は益々加はり。それでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し、一安心す」。これは、中隊が捕虜が脱走しないかどうか見張っているのですが、衛兵を交代してちょっと一安心だ、ということです。
 「しかしそれも束の間で、午食事中に俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す」。これは、捕虜を収容していた所で火事が起きて、大変なことになった。で、この捕虜をどうするのか。このままだと手間がかかる。食事も与えなければいけない。それで、「午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である」と記しています。捕虜を監視しているのが大変だから、もう殺してしまおうということになり、揚子江岸に引率していって射殺した、というのです。
 捕虜を管理するのが大変だから殺してしまうというのは、実は映画『硫黄島からの手紙』でも描かれていました。あれはアメリカ兵が捕虜にした日本兵を捕まえて、面倒くさいから撃って殺すというものでしたが、これはもっと大規模です。
 次は12月17日、翌日のものです。
 この日は、南京の入城式というものが行われています。「本日は一部は南京入城式に参加」。これは映像でも残っています。日本側が撮った映像でも、ずいぶん荒涼として所を松井石根司令官をはじめとして馬で行くシーンが残っています。一部分は南京入城に参加したのですが、「大部は捕虜兵の処分に任ず」。つまり大部分の兵隊には捕虜の処分を命じたということです。「小官は八時半出発、南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た」。この人は将校で、入城式に参加したんです。
 しかし、午後に帰ってきて、「夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり、出発す」ということで、南京入城式が行われているその当日、一方では、揚子江岸で捕虜を処分していた。「二万以上の事とて、ついに大失態に会い、友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二に達す」とあるのですが、これはどういうことかというと、多くの捕虜を機関銃で撃った。ところが日本側がぐるっと囲んで撃ったものですから、向こう側にいる日本兵に当たってしまった。大失態とは、そのことを言っているんです。取り囲んで味方を撃ってしまい、それによって死んだ人もいた。「中隊死者一、傷者二に達す」ということですから、日本軍にとっては確かに大失態です。
 翌12月18日、「昨日来の出来事にて、暁方ようやく寝に就く」とあります。射殺で時間がかかって、明け方までかかった。それでようやく寝に就いた。「起床する間もなく昼食をとる様である。午后、敵死体の片付けをなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引き上ぐ。風寒し」。前日一日かけて射殺をして、死体の片付け(揚子江に流すこと)をした。しかし一日やったけど終わらなくて、また明日やることにした、というのですから、死体はすごい数だということです。「二万人以上の事」と、この宮本さんは聞いていたというんです。
 12月19日になると、「昨日に引続き、早朝より死体の処分に従事す。午后四時迄かかる」と書いています。この日も揚子江に遺体を流す作業をやっていたと言うんです。
 これらを見ると、17日の南京入城の前日から組織的に捕虜の殺害が行われて、19日までの4日間、この13師団は一生懸命に捕虜の遺体を揚子江に流す作業をやっていたということが判ります。先ほどお話した、犠牲者の数が判らないというのは、ここなんです。このように無秩序に殺した遺体を、どんどん流してしまった。こんな状況(射殺された遺体が放置されている)がずっと人目に晒されるのはよろしくないので、大急ぎで遺体を流すということをやったために、また、誰も記録を付けているわけでもないので、そこで亡くなった人の数がどれくらいかが判らないのです。
 この日記は確かに現場の指揮官の記録なので重要です。これだけでも虐殺はなかった、なんてことはとても言えません。しかし、この人自身は手を下していない。この人自身は現場の指揮官で、兵隊に「やれ」と言って指揮はしているのですが、具体的に自分が手を下しているわけではありません。
 では、手を下した人は記録を付けているのかということですが、その前にもう一人、将校の日記を挙げておきました。

現場指揮官2/第13師団歩兵第65聯隊第8中隊少尉・遠藤高明の陣中日記
出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』219〜220頁所収。

 これも、先ほどの宮本さんと同じ事件を記録しています。つまり、一人の記録では不十分だと思いましたので、第13師団歩兵第65聯隊第8中隊の少尉である、遠藤さんという人の日記を挙げました。この人は中隊が違いますので、同じ現場には居たんだと思いますが、ちょっと違う作業をやっていたのかも知れません。
 12月16日、先ほどの宮本さんの日記でも火事があったという日です。「定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く」。もう戦闘は終わっていることが分かります。「午後零時三十分、捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ、同三時帰還す。同所において、朝日記者横田氏に逢い、一般情勢を聴く」と書いてあります。まさに現場に新聞記者がいたんですね。「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し、I(=第一大隊)において射殺す」。この日記を見ると、この人は現場で新聞記者に会っているんです。逆に新聞記者から捕虜の数が1万7025名だということまで聞いています。しかも軍命令が出て、捕虜の3分の1をまず射殺せよということになったというんです。
 どうしてこんなことになってしまったのか。さっき火事が起こって収容が困難になったということが出てきましたが、このあとに「一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養し居る今日、到底不可能事にして、軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものの如し」とあります。要するに、兵隊自身も自ら食べ物を徴発している状態だから、ましてや捕虜に与える食料はない。ですから、「適当に処分すべし」という命令が出た、というんです。
 で、12月17日ですが、「17日、幕府山頂警備の為、午前七時兵九名を差し出す」。「幕府山」というのは日本側が適当に付けて呼んでいる名前のようです。命令されて、警備のためにこの中隊からも兵を出したということです。「南京入城式参加の為、十三D(=第13師団)を代表して、R(聯隊=第65聯隊)より兵を堵列せしめらる」。堵列というのは、銃剣を持ってずらっと並ぶことです。「午前八時より小隊より兵十名と共に出発、和平門より入城。中央軍官学校前、国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く」。この人も入城式に参加したわけですね。「途中、野戦郵便局を開設、記念スタンプを押捺し居るを見、端書(ハガキ)にて×子、関に便りを送る。帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり、疲労す」。帰るのに時間がかかって疲れたというんですね。つづいて「夜、捕虜残余一万余処刑の為、兵五名差出す」とあります。この人の第8中隊からも捕虜を処刑するために兵を出した。「本日、南京にて東日出張所を発見」──東日というのは、東京日日新聞、現在の毎日新聞です。さっきは朝日新聞の記者が出てきましたが、ここでは東日新聞の出張所を発見。「竹節氏の消息をきくに、北支より在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し」。ここでも新聞関係の出張所があったということが証言されていて、同じ日に捕虜1万余を殺すために兵を差し出したということが書かれています。
 これも指揮官ですから、自ら手を下したという人ではありません。
 もうちょっと見てみましょう。同じ第13師団で、この同じ事件を日記に残していた人が他にもいます。現場の下士官──兵隊を指揮する立場で、一番現場に近い人です。第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊の伍長であった近藤栄四郎という人の日記です。

現場の下士官/第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊伍長・近藤栄四郎出征日記
出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』325〜326頁所収。

 12月16日「午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為、相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので、勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る」。「徴発」というのは、お金を払って持ってきたという感じではないですね。買ったのなら、購入して帰ると書きます。でも「徴発」でも本当はお金を払わなければいけないんです。しかし当時の日本軍の感覚では、勝手に持ってくるというイメージです。「丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酊した」と書いてあります。おそらく随分たくさんお酒を持ってきたんですね。
 「夕方、二万の捕虜が火災を警戒に行った中隊の兵の交代に行く」。ちょっと文章が混乱していますが、「遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する」とありますので、この人は実際に行って、生き残りの人を銃剣で刺したんですね。
 「月は十四日、山の端にかかり、皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨(いたま)しさこの上なし。戦場ならざれば見るを得ざるところなり。九時半頃帰る。一生忘るる事の出来ざる光景であった」というんですから、戦場慣れしている下士官の近藤さんも、あまりの痛ましさに、さすがに心を痛めています。同じ光景に遭遇しても、こういうふうに心を痛めている人もいたわけです。この人は実際に「生き残りを銃剣にて刺殺す」とありますので、そういうことが行われていたまさにその現場にいたということです。
 では、もう一歩近くにいた人はいないかということで、次の日記を見てみます。これも同じ事件ですが、兵士の日記が残っています。

現場の兵士/第13師団山砲兵第19聯隊第III大隊・大隊段列上等兵・黒須忠信の陣中日記
出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』350〜351頁所収。

 第13師団山砲兵第19聯隊の第III大隊・大隊段列──大隊段列というのは輸送部隊のことです──上等兵であった黒須さんという人の当時の日記です。
 12月16日晴。「午后一時、我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて、幕府山方面に向かう」。もう戦闘は終わっていますので、これは警備のためなんでしょう。「二、三日前、捕虜にせし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以て射殺す」。機関銃で殺したとありますから、かなり具体的ですね。このときに、さっきの将校の日記によると、向こう側にいる日本兵に当たって、日本側にも死者が出ています。
 「その后、銃剣にて思う存分に突刺す。自分もこの時ばかりと、憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう」とあります。この人は、先ほどの伍長と違って、あまり痛ましいとは思っていません。このときとばかり思い切り突刺した、と書いてます。
 「山となって居る死人の上をあがって突き刺す気持は、鬼をもひしがん勇気が出て、力いっぱいに突き刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声。年寄りも居れば、子供を居る」。これは解釈がちょっと難しいところです。「年寄りと子供」と言っていますが、兵隊にしては年寄りで、兵隊にしては子供なのか、それとも本当に年寄りと子供なのか、どっちにも取れますが、「一人残らず殺す。刀を借りて、首をも切って見た。こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であった。××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た。皆無事、元気であった。帰りし時は午后八時となり、腕は相当つかれて居た」と書いてありますから、相当殺したんでしょうね。
 この人は先ほどの伍長と違って、あまり良心の呵責がなかったようで、大いにやったという、なにか随分興奮して書いています。この人はまさに現場で、最後に止めを刺したという、そういうことを語っています。これが虐殺の現場中の現場にいて、現場で事を行った人の日記です。

 以上の日記は、同じ13師団で、同じ事件について記したものですが、記した人の立場が違います。将校と下士官と兵隊の3段階で、命令する人、現場を監督する人、そして実際に手を下す人です。
 どの段階でもこういう日記が残っているということは、まったく否定の余地がないということです。詳細に見るとちょっとずつ数が違っていたりすることはありますが、数千人を一つの単位として、機関銃で殺害しているということは分かります。ですから、どう解釈しても、虐殺がなかったとはおよそ言えない。こんなにみんなが揃って幻を見ていることはあり得ないことです。しかも実際に手を下した人が証言しているわけですから。
 ところが、同じ現場を見た人でも、実際にその虐殺が起ったその場に居合わせなかった人は、同じ日本兵でも違った印象を持った場合があるんです。

事件直後に到着した兵士/第16師団輜重兵第16聯隊輜重兵特務兵・小原孝太郎の日記
出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。

 例えば、事件直後に到着した兵士の日記として、第16師団第16聯隊の輜重兵であった小原孝太郎という人の日記があります。この人は、虐殺事件のあった直後に、後方から輸送部隊としてやってきて、12月24日に南京に到着しています。
 この人は、先ほどの13師団の虐殺現場に近いところを通っているんですが、こういうことを日記に残しています。
 「さて、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。なんと砂の真砂でないかとまがう程の人間が、無数に往生しているのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はここで最後の幕をとじたに違いない。決定的のシーンだ。数え切れない屍体が往生している。敵はここまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って、致命的な打撃をうけたわけなのだ。わが南京陥落は、かくて成ったわけである」
 この人は、ここで最後の決戦が行われて、多くの戦死者がここで横たわっているんだと受け止めています。しかし、たぶん現実は違います。組織的に殺害された人が、まだ流されないで山積みになっていたんです。
 こういうふうに、同じ日本兵で、同じ現場を見たという人でも、ちょっと時間的にズレがあると、印象が違うんです。このあと南京に到着したような人は、同じ日本軍であっても、あるいは同じ虐殺の現場をチラッと見ても、必ずしもそれがこんなに組織的に殺害されたものであると受け止めていない人も結構いるんです。このあたりが、記録のなかなか難しいところです。

虐殺は非常に組織的に行われていた

 ここで示したのは、16師団と13師団の2つの記録だけですが、当時の南京攻略戦には7個師団の部隊が参加していて、それぞれ担当場所を変えて攻略していますので、この16師団と13師団だけが特殊であったとも思えません。というのは、捕虜がどれくらい出たかということを報告している部隊は、ほとんどないからです。それは、大抵の部隊がこの16師団や13師団のように捕虜を現地で処理したということです。
 ただ、全部殺したわけではなく、最後に挙げた小原さんによると、捕虜になった中国兵をすぐさま苦力(クーリー)──荷物持ちの労働者として使っている部隊があったというふうに日記に残しています。ですから、捕虜にした人たちをみんな殺したというわけではなくて、中には部隊長の判断で荷物持ちに使ったという部隊もあったということです。
 そういう点でいうと日本軍のすべてというわけではないのですが、しかし彼らの日記を見る限りは、虐殺というのが組織的に行われていたということが分かります。それから非常に気になるのは、捕虜だと言われている人の中に相当年齢が違う人が含まれているということです。本当に捕虜なのか。捕虜だと言っているけれど、かなり一般市民が混じっている可能性もあるわけです。
 日本では20万人前後の戦闘員、捕虜、一般市民を殺害したのではないかというふうに言われる場合が多いのですが、そのなかで一番数が多いのは、やはり捕虜の殺害です。1ヶ所に集めて機関銃で撃つというようなことが組織的に行われていたということです。

南京事件は慰安婦問題の原点でもある

 虐殺、それから徴発、略奪行為が相当行われていて、これがますます中国人の抗日意識を燃え上がらせました。
 それから、性暴力です。これも南京事件のとき多発したことは明らかで、実は日本軍自身もこれにはちょっと困ったんです。困ったんですが、憲兵が取り締まれないんです。あまりにも無秩序な状態になっていて、憲兵も取り締まれない。もちろん、日本の憲兵と言えども性暴力を許しているわけではないので、中には捕まる人もいる。捕まえて、憲兵隊に連れてこられると、当然その人たちは、別に俺たちだけじゃない、何が悪いんだ、みたいなことを言うわけです。中には起訴される人もいましたが、それは本当にごく一部で、ほとんど野放し状態なんです。
 さすがに、これは日本軍の威信を低下させることだ、と当時の日本軍と言えども考えたようで、その対策として、それだったら慰安所を置こうか、という発想になるわけです。ですから、南京陥落後、中国の戦地には非常にたくさんの慰安所が置かれるようになります。
 日本側としては、そういった激増する性暴力対策として慰安所を置きます。慰安所を作っても、中に誰もいないというわけにはいかないので、当然、「慰安婦」をどこからか供給するということになり、主として朝鮮からということになるんです。ですから南京事件というのは、その後の「慰安婦」問題の、ある意味では原点でもあるわけです。慰安所自体はもっと前からありますが、南京事件以降、これが爆発的に拡大します。

南京陥落によっても戦争は終わらず、泥沼化へ

 南京陥落によって、戦争はどうなったのかというと、結局どうにもならなかった。南京は陥落した、しかし戦争は終わらない。ところが日本政府は、これで戦争は終わったと思ってしまったんですね。
 日本政府は、現地でどんなことが行われているのかということを正確には掴んでいませんでした。ですから、外国メディアを通じて、ここで行われたことが部分的にほぼリアルタイムで世界に流されていたのですが、これは中国側の宣伝戦であるというような解釈をして、あまり真剣にこの事態を捉えませんでした。軍の中には、いくらなんでもまずかったんじゃないのか、ということを密かに思っている人がいたようです。その結果が慰安所の設置というような、また別の歪んだ形の解決方法を取っていくわけです。
 南京陥落というのは、日中戦争の大きな節目であり、このあと、翌1938年1月に、「爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出してしまいます。国民政府、つまり蒋介石政権はもう風前の灯で、一地方政権に転落したから、もう相手にする必要はないということで、この声明を出したために、日本は自ら非常に困ることになるんです。「対手とせず」と言ってしまったものの、相手にしなければ戦争を終わらないわけです。最後には話し合いをしなければなりませんから。ところがこの声明を出したために、自ら戦争解決の方法を失ってしまい、どんどん中国奥地に進撃する。武漢三鎮(漢口など3都市)を陥落させれば参るだろう、あるいはここを陥落させたら参るだろう、ということでどんどん奥地に行ってしまうんです。
 しかし、それは無理なんです、どうやっても。なぜなら、日中戦争ではピーク時、約100万の兵力が中国戦線に張り付けられたのですが、日本軍が占領した土地について、単純計算で一人当たりの支配面積を割り出すと、日本兵は1キロ四方に1人なんです。とんでもない戦争をやっちゃったということなんです。そんなの、とても占領地を維持できません。そんな状態なのに、無理やり戦争を続けざるを得ないということで、どんどん焦っていって、英米と対立を深めていって、最初の方でお話したように三国同盟を結んで、武力南進をして、挙句の果てには対英米戦争ということになってしまうのです。

映画は時代の空気を現わすことができる

 今日お話した南京事件などは、若い人の中にも、そんなのはいくらなんでも考えられない、というようなことを言う人がいます。それは、当時の空気というものが分からないからなんです。確かにその時代の空気を掴むというのはすごく難しいことです。断片的な事件についてはある程度知ることができたとしても、その時代の空気がどんなものだったのかということを知るのは難しい。しかし映画は、それを再現することができます。
 私は『母べえ』を試写で拝見しましたが、当時の空気をすごく上手く伝えているように思いました。
 しかし、これはそう簡単にできることではありません。大変な準備をしなければいけない。体験者の話を聞けば分かることがありますが、体験者というのはその時代の空気の中にいましたから、当たり前のことを意外に思い出せなかったりします。今の人にとっては、「ええっ、そうだったの?」と思うようなことが当たり前のことだったので、意外に思い出話に出てこなかったりするんです。日記も、当たり前のことはあまり書かないですよね。そういう点で、映画として、映像として再現するというのは、大変な仕事だと思います。
 しかしそれが多くの人に与えるインパクトというのは、すごく大きなものがあると思いますので、今後いろんな映画で〈時代の空気〉がリアルに描かれることを期待しています。これで私の話を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

 
(2007年12月8日)

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