映画人九条の会4・14映画と講演の集い

映画「第五福竜丸」について語る!

新藤兼人監督
新藤兼人監督
2005年4月14日 於 文京シビック小ホール

 映画監督の新藤です。皆さん、来ていただいてありがとうございます。

 どんなふうにして映画を撮ってきたかということを話したいんですが、あまり時間がありません。それで、先ほど表でサインしました本(新日本出版社刊「新藤兼人・原爆を撮る」)で詳しく述べていますので、それを読んでもらって、と思っています。私は、いろいろ製作の状況などをかいつまんで話すことにします。

 原爆映画は、「原爆の子」という映画を作りまして、広島の原爆のですね、それは劇映画です。どうも、撮ったんだけれど、もうちょっと原爆に踏み込んで撮れたらなあ、というふうな思いが残りました。そうするうちにビキニで死の灰を被った福竜丸の問題が起きまして、それを撮りたいと思ったんですけれど、金がないんですね。

 独立プロというのは、外見は威勢がいいんですが、内実は非常に金のない生活をやっているんです。それから50年も経ちまして、まだやっていますが、やっぱり金がない(笑い)。

 それで、なぜ金がないかというと、あまり儲かる映画を撮っていないんです。この「第五福竜丸」も全然儲からなかった。儲かればいい、というわけでもなくて、何か自由に映画製作活動をやりたいと思って独立して、近代映画協会を立てたのですが、作家の集団でして、経営者がいないんです。名ばかりの経営者はいましたが、素人みたいな経営者で、なかなか儲かる作品が作れない。そもそも儲かるような映画を作ろうとしないんですね(笑い)。だから上手くいくわけがない。

 それで、この「第五福竜丸」をやるときも、独立してから8年ぐらい経ったときで、本当に行き詰っていて、もう近いうちに解散するんではないかというようなところだったんです。

 ですが、さっき言いましたように広島の「原爆の子」は劇映画だったけれど、今度は違った手法で一つ原爆というものに接近してみたい、というようなこと僕が言って、「今度は第五福竜丸をやろうじゃないか」と言うと、みんなが「やりましょう」と言うんです。「それはあまり儲かりそうもないから、やめよう」という人は、誰もいないんです(笑い)。そんなようなことで、ずるずると経営的な困難にぶつかっているときだったんです。

 それでも、とにかく一つこの映画を作らなければいけないんじゃないか、というような感じになりまして、そうするとみんなも「そうですね」と言う。「いやぁ、それはどうですかね」と言う人がいないんです、うちのプロダクションには。僕が何かやろうと言うと、みんな「やりましょう」と言うんです。

 そんなことを詳しくお話しても面白くはありませんが(笑い)、それを第一に話さないと、どうも「第五福竜丸」に接近できないような感じがしまして──。

 それで、やろうということになって、広島では劇映画として作ったけれども、今度はそれをやめて、第五福竜丸が被った被曝の状況などを、全部事実の通りにやってみたい、と思ったんです。事実の通りに。

 だけど記録映画で撮れるわけじゃないから、シナリオを事実の通りに書いて、それを俳優でやる、ということですね。一つの試みだと思いましたよ。ドキュメンタリーに対する一つの試み。全部俳優がやるんだけれども、事実通りにシナリオを書いて、そのままやってみるということなんです。これが、僕が長年映画をやっていて、いつか試みてみたいと思ったやり方なんです。

 なぜそれをやるかというと、それで一つ映画のリアリズムに近づくことが出来るんではないか、ということなんです。それでぜひ実験的にやろうと。

 ところが実際にやるとなると、膨大な人数なんですね。乗組員の人だって24人いますし、それから焼津の人たちも出てきますし、膨大な人が出るんです。それで撮影は始まったけれど、フィルムが来ない、というようなことになるんです。金がないからフィルムが買えない。「おかしいよ、そんなことで映画を作っていていいのか」というようなことを言う人がいるんですけど、そういう状況で始まったんですね。意図ばかりが先走っちゃって、金の工面ができない、ということなんです。

 それで焼津へ持っていって、まずキャンプを張りまして。あなた方の中にその時に助監督をやった人がいますけれど、とにかく焼津へ持っていってキャンプを張って、まるまる焼津で撮りたいと思ったわけですね。焼津から船が出て行って、ビキニで死の灰を被って焼津へ帰ってきた、だから焼津が舞台だということです。

 ところがフィルムがなければ撮影ができない。100フィートとか、200フィートとかというフィルムが来て、やっと撮影を続けるという状態ですから、宿屋にみんな泊まったんですけど、宿賃が払えないんですね。それでどうしたかというと、宿屋のご主人の辛い顔を見ながら外へ出る訳にいかないから、宿屋に泊まっていたんですね。そうしますとね、「飯は出しますけど、おかずは出さない」と言われて(笑い)。払わない方が悪いんだから、それを屈辱的に考えないで、「お願いします」と言っては続けたんです。

 たまねぎを買って来て、それを微塵に切って、それに鰹節をかけ、醤油をかけて、それをおかずにして食うということを知っている人がいて。僕は全然そういうことが分からないから、味噌汁が付いているからそれに沢庵と飯でいいんじゃないかと思ったんだけれども、たまねぎを刻んで鰹節をかけたのがなかなか美味いんですよ(笑い)。それでご主人も追い出すわけにいかないから、もう呆れちゃって。

 ところが撮影のスタッフが一向に暗くないんですね。非常にみんな元気がいいんです。若々しいんですよ。スタッフも若い人ばっかりが就いているし、俳優さんも全部若い人なんです。宇野重吉が一番年を取っているというぐらいなんですね。だから愚痴を言わないんです。みんな飯が出なくて、なにか工夫しておかずを作って、という毎日なんですけど、苦情が出ないんですよ。なぜ苦情が出ないか今でも不思議なんですけれど、みんな文句を言わない。それで撮影を続けていけたんですね。

 それで、ついに宿屋に宿賃を払わないで引き上げたんですね(笑い)。主人は、「多分そうだろう」というような顔をしていて、意外なことが起きたというような感じではないんですね。ご主人も、「もう、しようがない、この人たちは金を持ってない。だから金を払うような人じゃない」というような感じなんです。

 そして色々とやり、とにかく最後まで、食うものがあればそれだけで元気が続くから、一日がくれば一日前進、二日目が来れば二日前進というようなことで、とにかくやったんです。非常に不思議ですね。今でも、どうしてああいうことが上手く突破できたかのか不思議なんだけれど、とにかく撮影を終えて、宿屋にも払わなくて帰っちゃうんですよ。

 それで、この映画がまたあまり受けないんです(笑い)。「えっ、原爆?原爆ですか」っていうような感じですね。関心がないんです。観る人は観てくださったんですが、受けない。

 それでいよいよ解散かと思って、解散の準備をして、記念作品に「裸の島」という映画を一つ作って、これを最後に解散しよう、ということになったんです。これが最低の予算で、最低の銭で作ったんだけれど、どういうわけかモスクワ映画祭でグランプリを獲って、世界中に売れたんですよ。麻雀で言えば、シーサンヤオチュウ(国士無双)みたいなもんで(笑い)、パッとこう、なにか上手く行ったんですよ。絶対に上手くいかないだろうと思って作ったんだけれど、上手くいった。

 それで僕はモスクワにいて、一番先に頭に浮かんだのは、焼津の宿屋のご主人ですね。映画売るのは、例えばフランスとか、ベネルックスとか、あるいは南方九ヶ国というようにいろいろサインして売るわけですが、サインして売るたびにもう焼津が頭に浮かんで来て、「あ、これでおじさんに払える」と。それで払いに行ったんですよ、その2年も経って。(笑い)

 払いに行ったら、ご主人が吃驚しちゃって、「どうして宿賃を払うような力が出たのか」と言うわけです。宿屋は商売で食っているわけだから、どうして突然払えるようになったのか不思議がっていました。でも訳を話しても長くなっちゃうから。ご主人も吃驚しているような感じがあったが、払えたんですね。

 それで今、ここへ来て話なんか出来ているわけです(笑い)。本当はもうその辺で潰れて、今頃は「プロダクションやったけれど、上手くいかなかったなあ」と言って愚痴をこぼして、顔を見合わせているようなことに本当はなっているはずなんだけど、まあ上手くいったんです。

 だから、やっとれば上手くいくんですね(笑い)。その時に金がないからやめた、というようなことになりますと、挫折のままになっちゃうんですね。それが一つ教訓になりました。

 つまらない──僕たちはつまらないと思ってないんだけど、そんなに受ける映画を作らなくてもいいんだ。我々が作りたいと思う映画を作ればいいんだ、というふうに思うようになったんです。自分たちが作りたい映画を作ると。

 今、「第五福竜丸」を観ましてね、事実のままを俳優でやるというのは、私もですが、スタッフにもある可能性を与えたと思うんですね。これは映画作りの一つの方法だと思ったりして。とにかく本当らしく、本当のストーリーでやってみるということが映画の基本ですから、そういうことを僕たちに教えてくれた映画ですね。

 時間が迫ってきて(笑い)、困っているわけではないんですけど、言い足りなくて。焼津でいかに金がなくて困ったかと、今は暢気そうに言っていますけど、金がないのは大変なんです(笑い)。本当に金があれば、と思いましたね。金がないからしようがないと。

 しかしねえ、金がなくったって殺されるわけではないから(笑い)。ともかく生きているわけですよ。

 宿屋の主人も呆れちゃって、この人たちはとにかく非常に不思議な人たちだ、金がないのに仕事をしている、ということが宿屋の主人には非常によく分かったと思うんですよ。僕たちも宿屋の主人の顔をあまり見ないようにして、遠慮深く宿へ帰ってきて、玄関に入って自分の部屋へ入るというようなことなんですね。玉葱を買ってきても包丁がないから(笑い)、カチャカチャ切れない。宿屋から包丁を借りなきゃならないから、借りて玉葱を切った。今、それを思い出して涙が出そうになって(笑い)。僕も老人になったからね、涙が出ちゃってしようがないんだけど、いろいろ思い出して。

 とにかくご主人は偉い人ですね、宿屋のご主人。そして僕たちと一緒に仕事をしたスタッフが偉かったですね。偉いスタッフがいたんですよ。それは助監督とか、あるいは照明機材を扱う人とか、いろいろな人です。失礼な言い方だけど、いわば雑兵(ぞうひょう)みたいな人たちが非常に力強い後押しをしてくれて、この映画を作ることが出来たんですね。その映画が残っていて、ここで映して観てもらえるということは、本当に映画作りの冥利ですね。

 今日はまずスタッフにお礼を言って──。ほとんどいないから、亡くなった人が多いわけですね。いないからお礼を言うわけにいかないけど、皆さんが見てくださるということで、まずお礼を言いたいと思います。この映画が何十年も経って、生きていて、それで観てもらえるというようなことは、無上な光栄ですね。仕事をやって良かったなあ、というような気がしています。

 僕の話に多少興味を持ってもらうと、本を買って(笑い)、いろいろと本に詳しく書いてありますから。その本屋さんも、僕の本なんか出して売れるのかと思ったんですけど、本を出されたんですね。本屋にまた迷惑かけてですね、宿屋に迷惑をかけたようなことになってはいけないと思って、それを心配しているわけです(笑い)。

 どうもいろいろつまらない話をしましたけど、そういう気持がずうっと続いて、やればやれるんだというようなことだし、その中心が自分たちがやりたいものをやるんだとふうな自信がありまして、それが我々を前進させてくれたんですね。それで50何年が過ぎたりしたんですよ。

 だから、今でもそう思っていますけど、僕も歳を取って、もう本当に足元がフラフラしてるんですけど、そういう気持でこれからもやりたいと思っていますし、それから若い人をそういうふうな道に持っていって、導きたいと思っています。

 いろいろつまらん話ばかりしましたけれど、これからもよろしくお願いします。

(盛大な拍手)


このサイトに関するお問い合わせは webmaster@kenpo-9.net へどうぞ。

Copyright © 2005 映画人九条の会 All Rights Reserved.