映画人九条の会3・3映画と憲法対談集会

「私にとって戦争とは」

黒木和雄=映画監督  小森陽一=東京大学教授/「九条の会」事務局長

生き残った者の死者に対して申しわけないという思いの“向き”によって戦争の後の生き方が大きく変わってくる。

私にとって戦争は映画の世界だった

黒木監督(右側)と小森教授(左側)
2005年3月3日、文京区民センター3A

小森 きょうの対談のテーマは、「私にとって戦争とは」という、たいへん根源的なものです。黒木和雄監督とお会いするにあたって改めて、では1953年に生まれた私にとって戦争とは何だったかということを考え直してみました。ひと言でいうとそれは映画のなかでの世界だったということです。別にきょうが映画人九条の会だからということではなくて、私にとって戦争をめぐる情報というのは、子どもの頃から常に映画というメディアを通して入ってきたのです。
 ただ私の場合、些か皆さんとは異なった特殊な経験をしました。父親の仕事の関係で私は、小学校のほとんどをチェコスロバキアのプラハで生活しておりました。通っていたのはソ連大使館付属学校で、完全にソ連圏の文化のなかにいたのですが、当時、娯楽といえば映画しかありませんでしたから、週末になると必ず映画を見るわけです。その3分の2ぐらいが大祖国戦争――ソ連がナチス・ドイツを打ち破った戦争――を題材にした映画を見ました。とりわけパルチザン映画を、とにかく日本人のなかではいちばんたくさん見ているのではないでしょうか。
 1960年代前半でしたから、当時はいわゆる核兵器による武装の問題がソ連と中国との間の政治的対立を生みだしていました。そういうなかで、ある週末は中国大使館に別な週末は北朝鮮大使館に家族で呼ばれて、父親たちは難しい話をしていたのですが、子どもである私と妹はつまらないだろうからと、たった二人で大使館の映画室を独占して映画を見せてもらっていました。最初は漫画映画とか人形劇映画ですけど、そのあとは大体が抗日映画です。
 私は8歳ぐらいでしたが妹はまだ3歳で、必ず「お兄ちゃん、どっちがいいほう?」と聞くわけです(笑い)。両方ともアジア人の顔をしていますからね。私は必ず、日本側が悪くて中国の八路軍や抗日戦線側がいいほうだと、毎回言わなければいけない。妹には日本国民という観念は一切ないので、ただどっちがいいほうか見てればいいわけですが、私の場合はその瞬間、一体なぜこんな極悪非道な存在として日本人は描かれているんだろうかと考えこんでしまい、たぶん中国や北朝鮮の抗日映画をこれだけ見ている日本人は私ぐらいしかいないんじゃないかと、そんなふうに思っていたわけです。
 1960年代――第2次世界大戦が終わって15〜18年という、まだ戦争の記憶が生々しいなかで、いわゆる社会主義国における娯楽映画、スペクタクルというのは戦争を扱ったもので、しかもそれは「正しい戦争」で善と悪がくっきり分かれている。そして戦争をするものがヒーローとして描かれる。そういうものをずっと見ていたわけです。“プラハの春”(68年)の前のことですが、数年経つと今度はアメリカ映画が入ってきました。「アメリカの正義」、「アメリカの戦争」というものが描かれている。ほんとうはソ連とアメリカは対立しているはずなのですが、“キューバ危機”(62年)以降の、フルシチョフとケネディの “雪解け”の 時代でしたから、そうするとアメリカのB級ハリウッド映画も戦争のスペクタクル化ということでは同じではないかということに11歳か12歳のころに気づき、愕然とするわけです。
 とにかく私が見た中国・朝鮮の抗日映画のなかでは、日本兵が殺される、そしていいほうが勝利するというふうにストーリーが結ばれていく。しかし私は、自分は日本国籍を持った人間であるという自覚がありますから、多分それがトラウマになったんだろうと思うのですが、だいたい私の見る悪夢というのは、日本に帰ってきた中学生以降、それは最近も見ますけども、だいたいが機関銃で乱射されている夢なんです。体中に弾が入って、それで目覚める(会場から溜息)。
 つまり戦争映画というものが、やはり第2次世界大戦後のある時期、ある種の国々、つまり第2次大戦の戦勝国では、「正しい」と「悪い」をきっぱりと分けている。その構造は日本の時代劇と同じなんですけど、善玉と悪玉がはっきり分けられていることによって、歴史認識や国家にたいする意識が、私の子ども時代にすり込まれていったわけです。中年になってからマイナーな映画館で戦前の『マライの虎 ハリマオ』(古賀聖人監督、43年、大映)を見たのですが、日本こそがアジアを解放するという映画だった(笑い)。結局、その手法は同じなんですね。
 私たちは今、冷戦構造が終わった時代を生きているわけですけども、20世紀後半は映画というメディアを通して、すでに終わった戦争を徹底してスペクタクル化し、英雄化していく。そして一人ひとりの国民(観客)が思考停止して行くメディアとして世界的に使われていたのではないでしょうか。今、それをテレビが肩代わりしている。それに対して黒木監督の戦争をテーマにした映画は、それらとは全く違うものだという思いを私は抱いているわけです。

生れて15歳まで、いつも戦時下だった

小森 考えてみれば、日常生活においては人殺しというのは最大の罪であるにもかかわらず、国家の名において行われる戦争――憲法9条の言葉を使えば、国権の発動たる戦争、すなわち、他の何ものにおいても侵されてはならない国家の統治権の行使としての戦争では、たくさん人を殺すことが正しいことで、しかも殺せば殺すほど英雄になる。こういう倒錯した観念が、さまざまなメディアを通してすり込まれるようになったのが近代です。そしてそれは、第2次世界大戦後も戦勝国のなかでは変わらなかったように思えるわけです。そして、映画的な戦争をスペクタクル化して善玉と悪玉をくっきりと分けていくような情報が、イラク戦争前後のアメリカなどでは、とくにFOXテレビを通して、高い視聴率をとって大量にタレ流されました。自分の息子が戦場に行っているような、たとえばヒスパニック系の家庭では、CNNのニュースは見ると恐いからFOXテレビを見ているんだということが、飲み屋などで話されていました。
 まず、この戦争と映画・メディアの関係について、第一人者としての黒木監督に是非お話を伺いたいと思うのですが。

黒木 そういうことを自分に引きつけてあまり考えたことがないもですから、ただ小森先生のお話を拝聴していたのですが、「私にとって戦争とは」ということでお話すれば、私の場合は15歳のときに戦争が終わりました。そのことを『美しい夏キリシマ』で15歳の少年を主人公に描いたわけですが、生まれてから15歳まで、戦争がなかった日は一日もありませんでした。“戦時下”というのが全く日常的な風景でした。そして戦後60年の今と戦時下の15年というものが、上手く言えないんですけど、どうもはっきりと区別がつかないんです。
 私にとってトラウマになりましたのは、中学3年、15歳のときに学徒動員で南九州のある飛行機工場に行っていたときのことです。ある日、その日は曇天でしたが、警戒警報が鳴っていつものように防空壕に避難する途中に、沖縄から飛来してきた米軍に急襲されまして、私の場合は友人が11人、ほとんどが即死状態で死んだんです。その当時、勤労動員、工場動員に明け暮れていましたので、そういうときに本好きの学生たちは避難するとき少しでも本を読もうと思って、文庫本などを出して読みながら歩いてるんです。ぼくはあんまり読書家ではなくて、ぼんやり歩いていて、たまたま落ちてくる爆弾を目撃した。その瞬間、日頃の軍事訓練のお陰で反射的に身を伏せました。その至近距離に爆弾が落ちたものですから、本を読んで歩いていたと思われるクラスメートは、ほとんどみんな死にました。生き残った同級生とその日のことを話し合うと、彼らは当然、負傷した友人を介抱したり、病院に担ぎ込んだりしている。でも私は恐怖のあまり、友人が即死状態でいる現場から無我夢中で逃げて、防空壕に入って震えてた。そのことが僕の中で、年をとるとともに大きな問題になりましてね。とくに、小森さんもお読みになったかどうかしりませんが、太宰治の『走れ、メロス』などを読みますと、まことに恥じ入って、これを読む資格もないというふうに思える。友情を語ったり、人間の誠実さを語ったり、約束を語ったりする資格が自分にはないと思うんです。
 それがぼくのトラウマですが、あるとき、日米合作の仕事がありました。戦争映画を撮ってほしい、それも日本人を一切出さないで撮ってほしいということでしたので、ヨーロッパへ行きまして、ハンガリーでスタートを切ったんです。アウシュビッツから逃げ出した青年が、その途中で恋をするというラブロマンスを作ろうとやっていたのですが、音楽の著作権の問題でトラブルになりまして、結局その作品は中止になりました。
 アウシュビッツを映画の前半の舞台にするつもりで何回もロケハンしていたのですが、そのことを知った日本のあるプロデューサーが九州のテレビ局とポーランドの合作でドキュメンタリーを作ろうとしていて、私がアウシュビッツに行ったことがあるというだけで、長崎とポーランドの合作映画を撮ってほしい、内容はまかせるからと声をかけられました。日米合作の仕事は2年近くかかったなかで中止になったものですから、非常にスランプ状態になっていて、そのドキュメンタリーを撮ることで自分の気持ちを少しでも立て直したいということがあったものですから、その話を引き受け、長崎の町を歩きながらいろんなことを考えました。
 爆心地の近くに城山小学校というのがありまして、そこは1945年の8月9日に、1400人余の生徒が亡くなりました。その地域で生き残った子どもは50人ほどだったそうです。教室を借りて動員されていた旧制女学校の生徒さんも亡くなったのですが、そのなかに林嘉代子さんという方がいらして、彼女の遺骸を被爆から21日目、敗戦から2週間ほど経ってからやっと見つけたという彼女のお母さんに出会ったんです。こんな話していてよろしいでしょうか?

小森 ええ。

黒木 お母さんが、嘉代子さんが非常に桜が好きだったということで城山小学校に桜を寄贈しまして、それが今や何十本と咲き誇っているんですね、春が来ますと。“城山の嘉代子桜”ということで有名だった桜が私の目にとまりまして、お母さんの林津恵さんに会ってお話しているうちに、どうしても長崎とアウシュビッツを繋げたいと考えるようになったんです。でも嘉代子さんのことだけでは発想できなくて、コルベ神父――彼は長崎に教会を建て、その後ポーランドに帰りアウシュビッツに収容された方ですが、妻子ある男の身代わりに自分を殺してくれと名のり出て、断食という労苦(餓死刑)で牢に閉じこめられるんです。でもなかなか死なないものですから、最後には毒殺されるのですが、長崎とつながっているコルベ神父のことを研究しているワルシャワ大学の女子学生が、コルベ神父のことを調べに長崎に来るということを咄嗟に思いついたんです。幸い、そういう学生で日本語が堪能な学生が見つかりましてね。彼女に長崎に来てもらって、林津恵さんと引き合わせまして、ふたりが長崎で過ごすという、その出会いから別れまでをドキュメンタリーで撮ったわけです。
 そのときに長崎で被爆した人たちに会いました。私のなかで15歳のときに生き残ったことを非常に後ろめたく思っていたのですが、アウシュビッツの調査をしているときもいろんな方に会いましたけども、アウシュビッツの生き残りの方も大体は、まず後ろめたいということを語られる。長崎でも被爆者の方にお会いしましたけど、後ろめたさを語られるわけです。非常に共通しているんです。それがやがて、井上ひさしさんがお書きになった『父と暮せば』のヒロインの肖像にたどり着くわけですけども。
 後ろめたさということから来たものではないのですが、そのドキュメンタリーのあとに『TOMORROW/明日』という原作を得まして、原爆が落ちるところに暮らしていた数十人が被爆するまでの24時間を描きました。『TOMORROW/明日』では、登場人物はひとり残らず死んでしまいます。

『美しい夏キリシマ』と『父と暮せば』

黒木 話が飛びますけども、山中貞雄という監督がいるんですが、彼は戦前の監督で、26本撮ったうち3本しか作品が残っていません。時代劇しか撮っておりませんが、28歳と11カ月で中国で戦病死しています。彼の作品を見まして非常に衝撃を受けまして、尚かつ28歳で戦病死したということに憤りを感じたということもありまして、彼の映画を作りたいなと思っていたんです。
 そのホンは20年ほど前からずっと考えているのですが、映画人と戦争ということも絡め合わせて撮りたいと思っています。山中貞雄にしてもほとんど戦争に対する批判がないんです、彼のメモを見ましても。当時、反戦映画1本も撮らなかった日本の映画人て何だったんだろうということを重ね合わせて、他人事ではなくて自分自身の現在を振り返ってみたいということで企画したのですが、その話をもって回ってもなかなか実現しなくて、たまたま戦争のときの自分の体験を話しておりましたら、あなたの戦争体験のほうが非常に興味があるのでそれを映画にしてくれ、製作費も準備するからという若いプロデューサーが現れて、それで作ったのが『美しい夏キリシマ』だったんです。
 11人のクラスメートを捨てて介抱もしないで逃げた私としては、いちばん作りたくなかった映画です。ただ、映画というのは億単位でお金がかかります。それを作れとプロデューサーが言ってくれたものですから、非常に忸怩たる思いだったのですが、こういうチャンスがないと作れないだろうなと思って、飛び込むような気持ちで作ったのが『美しい夏キリシマ』です。この映画は『TOMORROW/明日』と違って全員が生き残ります。そして、後ろめたさの問題を割り合い据えて描きました。
 その作品の仕上げの段階で、私の中学時代から非常に親しくしておりました男がいるのですが、彼がガンで急逝したという知らせが入り、非常にショックを受けました。彼は広島で生涯、被爆者の救援の仕事をしていました。生前、彼は広島を題材にして撮ってくれ、原爆映画を撮れとは言わないけども広島の人たちを撮ってくれ、いくらでも応援したいと言ってくれていたんです。その果たせなかった彼との生前の約束を果たしたいという、ちょっと殊勝な気持ちになったんです。ただ、新しく広島の町を歩いて取材していると1年や2年はかかるだろうなと思い、どうしようかと考えたときに、9年ほど前に拝見し感動した井上ひさしさんの『父と暮せば』が閃いたんです。
 非常に劇として完成度の高いものですから映画化することにOKなさらないかもしれないけども、『父と暮せば』を映画にしてみたいと思いお願いしましたところ、意外や意外、ほとんど期待していなかったんですけど、OKをいただいたんです。原作料、映画化権は一切いらないとおっしゃるので、びっくりしました。ただおっしゃったのは、これは核保有国の人に見せたい芝居だと。モスクワとパリで上演したけれども、芝居を外国にもっていくには費用もかかって、言葉の問題もある。その点、映画になれば1本のプリントになって非常に海外に持ち出しやすい。日本の上映がひと段落ついたら、ぜひ核保有国に持って行って見せてくれたら非常にありがたい。それが、井上さんがおっしゃった唯一の注文でした。そういうことで作ったのが『父と暮せば』です。そしてそれは、戦争で生き残って、生涯を広島の被爆者と生きた友人に対する約束を果たしたものです。作品として、原作は傑作なんですけど、映画として果たして上手くいったかどうか、観客のみなさんの判断に委ねたいと思っています。
 私と戦争との関わりというのは、映画を撮ることを通して戦争とどこかで触れ合うと言いますかね。ただ映画は非常に金がかかるものです。タンク(戦車)が出てきたり、弾丸が飛びかったりしますから。製作費をかけずに撮るためには戦場じゃない、非日常ではない日常的な空間を撮ると何分の1かの製作費で撮れる。だからといって日常生活に射程を合わせているわけじゃないんですけど、そういうこともあって『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』を撮ることができたんです。
 それと、私の15歳までの経験から言いますと、日常のなかにいつの間にか戦争が忍び込んでくる。それがいちばん恐いという感じがしています。なかなか見えないんですよね。戦時下の少年時代に吸っていた空気と今の空気はあまり変わらないように思います。それは、“感じない”というんですかね、じわじわと押し寄せてくるものが目に見えないで日常生活に埋没してしまって、私自身もなかなか戦争が見えない。ですから映画を作ることで私自身を刺激すると言いますかね、叱りつけるというか。そんな感じもあって作っております。
 小森先生のお話の答えにならないんですけども、私と戦争についてのつながりは映画を通してしかないものですから。

小森 いえ、たいへん重要なご発言だったと思います。今、黒木監督のお話のなかで、15歳のときに友人が爆撃で命を失った、しかし自分は生き残った、そのことに対する負い目が重要な出発点になっているというふうにお話になったと思うんですね。実は私が井上ひさしさんと親しくお話するようになったのは、ちょうどひさしさんが『父と暮せば』を構想されていたときなんです。
 非常にはっきり覚えてるんですけど、最初は図書館の問題を芝居にするという構想で、小森さんは図書館をよく使っているから手伝ってくれないかということでした。「the座」というこまつ座の雑誌に図書館問題について語るために、井上さんはさまざまなお芝居に使われた本を全部、ご自分のふるさとの小松(山形県・川西町)にある遅筆堂文庫という図書館に何十万冊という本を寄贈しているのですが、その井上さん自身の図書館を見学したりして準備をすすめていましたら、「小森さん、全然、構想が変わってしまった」と言われてしまって(笑い)、その話は全部ボツになったんです。
 「構想が変わってしまった」とおっしゃられる前から何度も新しいお芝居について何となく議論をしていたときに、ひさしさんがいちばんこだわっていらしたのが、なぜ被爆者の方々というのは、自分が生き残ったということを申しわけないというふうに思うのだろうか。その心のなかには、一体どういう問題がひそんでいるのか、ということでした。それをいろんな角度からお話なさったのですが、黒木監督の15歳のときの思い、そして『父と暮せば』のお芝居をご覧になったときにそれが15歳の自分と重なり、『美しい夏キリシマ』につながっていくとおしゃっていましたが、この、なぜ戦時下において生き残った者が、死者に対して申しわけないという思いをずっと抱きつづけることになるのか。それから、生き残った者の死者に対して申しわけないという思いの向き、方向によって、戦争のあと、どう生きていくのかということが大きく変わっていくのではないかという思いを抱いたんですね。
 そのあたり、なぜ生き残った者が死者に対して申しわけないという負い目を感じるのか。かと言って、黒木監督もインタビューのなかでおっしゃっていたように、じゃあ、生き残ったことが嬉しくないかというと嬉しい。嬉しいと思うからこそ、さらに負い目が…という、この人間の心の動きというのは、どうして生まれてくるのでしょうか。

黒木 哲学的なご質問で、難しくて答えにくいのですが、ただただ申しわけないという気持ちだけなんです。ただ小森先生がおっしゃったように、申しわけないと感じている者の、その後の方向性の問題ですよね。
 私の場合は単純に、戦争というものが、申しわけないという思いを生みだした諸悪の根源だと思う、これは理屈ぬきで。ですので、どうしても戦争に対する嫌悪感というものがあって、戦争というものが足早に忍び寄ってくるのを、ハエを叩くように自分の周辺から追い払おうとしているということでしょうか。やはり、後ろめたく思わせたことへの憎しみがあります。少し横に自分の気持ちを見つめてみると、そういうことではないかという気がします。

9条と教育基本法に登場する「希求」という言葉

小森 この問題は、私にとっても非常に大きなもので、私自身、9条の問題を自分の人生の中心に据えて生活するようになってしまったんですけども、そのなかで、井上ひさしさんや黒木監督が何にこだわっていらっしゃったのかということが、私はこの運動を通じて少しずつ見えてきたような気がするんです。
 ひとつ、黒木監督と井上ひさしさんの問題意識の共通項を解くきっかけになったのは、6月10日に「九条の会」を結成して、7月24日に創立発足記念講演会を東京でやらせていただいたんですね。準備期間がなくてたいへん狭い会場でしたので、多くの方が入りきれなくてお断りしたのですが、そのときに大江健三郎さんが、憲法9条と教育基本法の前文には「希求」という耳慣れない言葉がある。しかし、「希求」という耳慣れない言葉を、どうしてもこの法律を作った人たちは使いたかったというふうに思わなければならない。こうおっしゃったんですね。
 みなさんはよくご存知だと思いますけど、9条にはこうあります。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇、また武力行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。2項では「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。つまり、この「戦争放棄」の規定の直前に「誠実に希求し」という、大江さんのこだわられた言葉が出てくるわけです。そして当然、国権の発動たる戦争は放棄するから陸海空軍その他の戦力は持たないという第2項が、論理的な帰結として出てくるわけです。それこそ今、黒木監督がおっしゃった戦争への憎しみ、戦争が諸悪の根源なんだという、その思いが9条からくっきりと浮かび上がってくるわけです。
 そして、教育基本法の前文のどこに「希求」という言葉が出てくるかというと、こういう件です。前文の第1段落が、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とあって、そのあとです。「われらは、個人の尊厳を重んじ真理と平和を希求する人間の育成を期する…」。こういうふうに敗戦後の日本の教育の方向が指し示された。つまり、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」というのが戦後の、新しい憲法の下における日本の教育だということを明記しているわけです。
 あの講演のなかで大江さんは、こうおっしゃったんです。希求という、つまり「希い求める」という耳慣れない言葉が出てくる文体――これは法律のことなんですけど、文体とおっしゃった――には倫理観すら滲み出ている。そしてその倫理観というのは何かというと、生きている者が死者のことを非常に身近に常に意識しつづけていることだ。そのときに人間の倫理性というものが現われてくる。「希求」という言葉にはそれが出ている。そういうお話をされたんです。
 そのお話と黒木監督のお話を重ねてみると、黒木監督の場合は、自分に負い目をもたせた戦争そのものを憎むということ。その考え方のなかには、たとえば私の子ども時代に見ていた“正義の戦争”――悪い戦争をするヤツがいて、正義の戦争はそれをたたくんだからいいんだ――というものはない。つまり、“スペクタクルとしての戦争”という方向には絶対に行かないということですね。戦争そのものが憎しみの対象になる。そこが、私は非常に大事だなというふうに思います。
 黒木監督は、いちばん最初におっしゃいましたけれども、15歳のときに死者に対して負い目を感じた自分の思いを戦後60年ずっと抱きつづけられて、映画を撮ることでそこに関わっていく。そういう、自らのトラウマを常に映像化するという、いちばん人間としてキツイと思うことをやってこられた。つまり忘れてしまわない、絶対に忘れないという営みとして黒木監督の映画への関わりがあるんだというふうに、私は今、お話を聞いていて思いました。
 「トラウマ」というフロイトの精神分析用語は、ある時期に非常にショッキングな出来事が起きて、そのときはそれに絶えきれなくて直ちに忘却してしまう、フタをしてしまう。それが、しばらく人生を歩んでいくなかで大人になって、フタをした出来事と同じような出来事が目の前に出てきたときに、そのフタが取れてしまってパニックになる。これが精神的外傷としてのトラウマです。私は先ほど、死者に対して負い目を感じたということに“向き”があるということを申し上げましたが、そこだと思うんですね。つまり、忘れずにそのことを記憶から思い出しつづけているのか、それとも何かをきっかけに忘却し、フタをしてトラウマ化してしまうのか。そういう点で黒木監督は、実はトラウマに絶対しないで、映画を作るなかでその負い目と向かい合ってこられた。そういうふうに、改めてお話を聞いて思いました。

言葉でなく映像で記憶することとは

小森 文学の専門家として言わせていただくと、人間の記憶というのは2種類あって、体験したことがそのまま知覚感覚的な記憶になったまま残っているものと、きちんと言葉に枠づけられて言葉の引き出しに入っている記憶とがあるんです。
 たとえば失恋したというとき、その出来事を友だちに「オレ、失恋しちゃったよ」と言って、失恋したという言葉の引き出しに入れると、割りと安全に出し入れできるんです。そうじゃない場合、たとえば去って行くときの彼女の振り向きざまの冷たい顔とか(笑い)、完全に無視した肩の動きとか、そういうものが人間の記憶のなかそのままよみがえると、人間はパニックになるわけです。これが「トラウマの再生」ということなのですが、文学、言葉の世界というのは、記憶を言葉の引き出しに入れて人間にとって安全なものにしていくジャンルなんですけど、映画は映像そのものとして提示されるものですから、それはかなり危険です。しかも黒木さんはそれを作る側でいらっしゃるわけですからね。その意味でいうと、死者に対して生き残った者が感じる負い目というものをどういうふうにして映像に撮るのか、とても興味があります。さきほど、弾がビュンビュン飛ぶ映画は製作費がかかるからとおっしゃいましたけども。

黒木 ええ。

小森 確かに大資本が作るスペクタクル的戦争映画はどんどん製作費をかけています。たまに、外国に行くときの飛行機のなかでそういう作品を見たりしますが、しかし金がかかっているということが分れば、人間としての、それこそ大江さんが言う倫理観というものが一切消されているとも言える。そういうものと黒木監督の映像の違いについて、もう少し語っていただきたいと思うんですけど。

黒木 それは、ほとんど小森さんが言い尽くされていますので(笑い)、そうですね、参ったなあ…。井上さんの『父と暮せば』は、私と同類のヒロインが、キザに言うと、アウフヘーベン(止揚)されてくる形が、観客のひとりであった私にとって、救いであったんですね。それを私自身が別の形で撮るというのは非常に僭越で、思い上がった行為ではあったんですけど、主人公、ヒロインの再生をなぞりたいと言いますか…。映画を作るという、なぞる作業のなかで救われたいという、非常に欲張った考え方にとらわれていたんです。上手く言えないのですが。

小森 『父と暮せば』のヒロインは、それこそ一瞬にして死者と生者に分離されるわけですね。黒木監督の映画で言えば、たまたま友だちの手紙がはらりと落ちて、石灯籠の陰にしゃがんだ瞬間にピカッとなった。父は直接ピカドンに遭い死に、そして手紙をくれた友だちも死んだ。やはり生き残った者同士としての友だちの母親から、「あの娘が死んで、なぜあなたが?」と言われる。その一瞬の違いですね。それはまず、状況として死ぬのが当たり前だったということですね。

黒木 そうです。

小森 それが、まずありますよね。あのときにみんな死んで当たり前だという、みんなが死に向かっているという、それがたぶん戦時下の社会だった。当然、人間は最終的には死ぬということで生きているわけですけど、多くの平和の場合、生きることを常に意識していて、死を意識することから逃れて日々を生きているわけですよね。これは人間の心のあり方、精神のあり方と実はものすごく深く関わっていて、たとえば、ほんとうに私たちが死を意識するとしますと……。今、私は5秒ぐらい沈黙しましたが、その5秒の間に、ここにいる全員が死に近づいている。と言ってる間にも近づいてるわけでしょ。そういう、一歩一歩死に近づいていくんだということを常に人が意識していたならば、それは発狂してしまう。同時に、人間にとって根源的な問題は、人の死は認識できても自分の死だけは認識できないということ。

黒木 そうです。

小森 そういう根本問題がありますから、それはいくら意識しても仕方ないことなんですね。平和なときには、それこそ死ぬことはわかっているけども、取りあえずは生きていく方向に自分の心を向けていくことができます。だけど、そうでなくて戦時下であれば、必ず死ぬ。すぐ死ぬかもしれないという、死ぬことが当たり前の状況のなかで、自分は生き残った。そして死ぬことが当たり前の状況ではなくなった。死を常に身近に意識しなくてもいい状況になった。その関連のなかで非常に深い負い目ができてくる。
 その死者に対する負い目、死者の死を近いものと感じることを忘却して、フタをしてしまって生きていくという、死者との距離を広げていく方向に向かった人もいるのではないかと思います。あるいは、無理矢理に忘却させて死者との距離をとらせた戦後の最も犯罪的な行為だと思うのは、まだ「現人神」であった昭和天皇裕仁が、戦争の敗北の報告を伊勢神宮に行って行ない、そして明治天皇、大正天皇に行なって、その延長線上で1945年の秋に靖国「親拝」をして、このことによって戦争における軍人の死者が「英霊」にされた。そしてその数カ月後の1946年1月1日に「人間宣言」をし、戦死者を出したすべての家族、その死者に対して負い目を抱きながら生きている人たちすべての間に、天皇が入って行き、それを靖国が吸い取っていった。しかも、そのなかで、たとえば「靖国の母」や「靖国の妻」になった、ならされてしまった人たちも「ありがたい」というふうに言ってしまうような忘却の仕方が組織されたことです。
 そういう意味で言うと、黒木監督の映画、その一つひとつの映像は、逆に私たちが忘却してはならない光景そのものを今に一つひとつ残していくことだったように思います。つまり、私は日本の大陸への戦争は知らない。そして、黒木監督の作品で戦争の悲惨な場面を見せられているわけではない。けれども何気ない光線――『美しい夏キリシマ』はほんとうに美しい夏でした――や俳優さんの顔の陰影だとかによって、そこに生きているということが刻み出されたときに、この命が無法に奪われてしまう事態というものが、その生きている人の背後から見えてしまう。その意味で大江さんのおっしゃった、生きている者が死者の身近にその死を意識しているという倫理観、それが黒木監督の作品の世界の要かなというふうに思いますね。

将校たちの涙と、兵士たちの歓声が……

黒木 15歳のときに戦争が終わったのですが、8月15日は雲ひとつない晴天で、カンカン照りでした。私の家が地主だったものですから、ラジオが近所にほとんどなくて、付近に駐屯していた将校たちがみな私の家に集まってきました。何事かよくわからなかったんですけど、みな正座してラジオを聞いているんですね。放送が始まったのですが、キンキン声で人間の声とは思えず、何をしゃべってるか全然わからなかった。おそらく、間もなくアメリカ軍が上陸するので全員が一人残らず抗戦して、アメリカ兵と戦って死ねと、死のうと言ってるんだと思ったんです。途中で天皇の放送じゃないかと思っていましたが、途中で将校たちが泣き出したんです。そして、明治10年のときに少年兵で西郷軍に参加した慶応元年生まれの祖父が、憮然として放送の途中で自分の部屋に去ってしまった。将校は泣いているし、これはどうもたいへんなことが起きたと思いましたね。すぐ後ろの竹やぶにいっぱい兵隊が駐屯していまして、悄然とした将校が帰ったあと、30分か40分ぐらいしましたら、何か明るいどよめきみたいなものが竹やぶ全体から起こってきたんです。何万といた兵隊たちの、非常に明るい声が聞こえてきたような感じがして、それで初めて、戦争が終わったということがわかったわけです。
 毎日すぐ近くを飛んでいましたアメリカのグラマンの編隊がすっと姿を消しまして、死ななくて済んだという喜びがわいてきたのですが、同時に非常に不安に陥りました。8月15日に負けたということを知ったとき、20歳まで生きなくちゃならないという、そういう不安に陥ったんです。つまり、それまで全然、未来を考えたことがなかったんです。20歳まであと5年もかかる。その時間をどう過ごしたらいいかと、ほんとうに途方に暮れたといいますか…。後で理屈をつけてしゃべっているかもしれませんけども、何かほんとうに途方に暮れたという、そういう感じでした。つまり、明日あさってに死ななくてすむという喜びとともに、長生きしなきゃいけないということで途方に暮れた。そういう感じが、その一瞬、こもごもとあったことをよく覚えております。

小森 ということは、日々そう意識されていたわけではないけれども、自分の人生は20歳まではないというふうにずっと考えていたんですね。

黒木 はい。上陸するのが11月だと言われていましたからね。年内まで生きられるかどうかと思っていました、あのときの少年少女たちはみな。

小森 もう数カ月で自分が死ぬというふうに思っているときの、それはたぶん全国民的に思わされていたわけですが、そういう社会の状況というのは、どういうものだったのでしょう。

黒木 そういうものと、非常に日常的なものが共存しているんですよね。うまく言えないんですけど、ちゃんと朝起きて、飯をちゃんと食ってですね、家族や近所の人たちとは談笑するし、ほとんど日常生活と変わりないんです。年内にも死ぬんだという思いのなかでいながら、同時に目に見える世界は全部日常的な感じがしましたね。それが戦後60年、ずっと延長してるような感じがするんです。被爆体験と、1945年8月15日を境にした、その前と後が何とも整理できなくて戦後を生きてきた。ですから映画を作ることで、もう一回そのことをなぞって確かめてみたい。そういう気持ちなんですね、答えは出ませんけども。

小森 何をいちばん確かめたいというふうに思ってらっしゃいますか。

黒木 なんでしょうね。…ちょっと言葉では言えないのですが。

小森 それをぜひ映像にしていただければ、私どもとしてはありがたいのですが(拍手)。

次回作で“戦後レクイエム”に取り組む

小森 8月6日のヒロシマ、8月9日のナガサキ、そして8月15日の天皇の玉音放送という、この3つの問題は、やはり私にとっても極めて重要な文学的な問題でした。それは今でもそうありつづけていて、2年前に『天皇の玉音放送』(五月書房)という本を書きました。それにはNHKが保存していた原版から録った玉音放送のCDが付いていますのでぜひ聞いていただきたいと思いますが、つまり、この8月6日、9日、15日というあたりに、今私たちが直面している21世紀の戦争、そしてアメリカが日本に9条を変えさせようとしている仕掛け、カラクリが全部組み込まれているような気がしてならなかったということです。
 つまり、7月26日にポツダム宣言が出され、それを受諾しなければ最終的な攻撃をかける。たぶん、そのあたりのことが、11月頃に上陸か、ということで15歳ぐらいの子どもたちにも伝わっていたんだと思います。戦前の帝国憲法では、主権者は天皇ただ一人ですから、彼しか「国権の発動たる戦争」を終わらせることができないわけです。けれども国体護持が明確ではないということで、受諾をずっと引き伸ばしていった。ポツダム宣言を受諾しなかったが故に、アメリカ軍は最終攻撃としての原爆を、8月6日に広島に落とし、それでもポツダム宣言を受諾しないので、9日、長崎に原爆を落とした。明らかに無差別殺人でしかない原爆投下を、アメリカ政府は今でも、投下しなければ日本は戦争を止めなかったじゃないかと言っています。つまり、「国権の発動たる戦争」を止めなかったじゃないかという形で正当化しているわけです。そして、8月15日にようやく受諾するわけですが、しかし受諾したその時点では、将校たちは泣いて、竹やぶでは喜びの声があがった。つまり、見事に日本軍は天皇のひと声で武装解除されたわけです。ですから戦後の日本を占領したマッカーサーは、このひと声で日本軍を武装解除した天皇を占領支配に使おうとした。そこから、昭和天皇裕仁の戦争責任は東京裁判で訴追しないという路線が決まるわけです。
 そのことによって、自らの犯した罪をきちんと意識する——それは実は死者に対する生きてる者の責任であるわけですが――あるいは生きてる者の、死者への責任をとりながらどのように生きるのかという、それこそ、そこから大江さんがおっしゃった倫理性が生まれてくると思うんですけど、その機会を失わされてしまったわけです。そのことに対する憤りで2年前にその本を書いたわけです。以来、右翼からの脅しが一切こなくなって(笑い、拍手)、私は良かったなと思っています。それまでは何か私が言うとFAXの波が研究室に届いた。「死ね」とか、「北朝鮮に行け」と言うのはまだいいんですけども、「ソ連に帰れ」というのもありましたから(笑い)。この本は去年の8月15日に中国語と韓国語で同時に翻訳されて、向こうでも評判をよんでいるようです。
 そういう日本の戦後のごまかし、曖昧さということへ、黒木さんの問いというのは映像として向かっているのかなと思って、見させていただいているのですが、いかがでしょうか。

黒木 あの15歳のときの11人の死者たちに対する後ろめたさというのは、墓場まで持って行かざるをえない、拭えないものなんですけども、そういう意味では、戦争を日常的に描くことで観客にアピールするというんでしょうか。反戦とか何とかいうのではなく、戦時下の日常そのものを映画館で体験していただくというようなことを通して、生き残ってしまった者の後ろめたさを少しでも死者に返していきたいなという感じがしますね。それは今、きれいな言葉になりましたけど、小森先生と話していて、そういうふうな気持ちに今なったんですね。

小森 そういうふうに言われると二の句が継げなくなってしまいます(笑い)。これから黒木監督が計画していらっしゃる次の映画のことについて少し触れていただきたいと思うんですけども、『紙屋悦子の青春』という作品だそうですが。

黒木 そうです。『紙屋悦子の青春』というタイトルで、『美しい夏キリシマ』の脚本を一緒に書いていただいた京都在住の松田正隆さんという若い劇作家が30歳前後にお書きになった戯曲です。『父と暮せば』と同じで芝居を映画化したいと思って、今準備中です。
 紙屋悦子というのは、実は松田さんのお母さんの実名なんです。お母さんの話を書いたわけではなくて、ただ何となくお母さんの名前をタイトルにしたかったということだったようです。
 舞台は九州で、特攻隊の基地がすぐ近くにあるんですね。特攻隊というのは、飛行機に乗り込んで飛行機もろとも突っ込んで、アメリカの艦船にぶつかって死ぬという、あわよくば撃沈してしまおうという魂胆のもので、全くの自爆テロですね、ある意味では。その特攻隊員が休むために行く家がありまして、そこの娘と相思相愛になるんですが、特攻隊に志願したためにもう時間の問題で、彼はこの世から消えなくてはいけない。それで、彼は学徒兵なんですが、同じ学徒兵で整備兵の親友を彼女に推薦するんです、なんとか彼とつき合ってほしいということで。彼女はそれを承知するんですが、それから一気に60年飛びまして現代になって、二人とも80前後の老人になっているんです。戦後60年をどういうふうに生きたか分かりませんが、おじいさんになった特攻隊員の友人と、おばあさんになった女性が、おじいさんが重病で、命がなくなるのがもう時間の問題なのですが、そこでふたりで語り合うという映画です。あまり上手い説明じゃないんですけども、現代の老人の話から始まって、60年前の青春が回帰されて、再び老人で終わるという映画です。“戦争レクイエム”というよりは、“戦後レクイエム”といえる作品です。そういう作品を企画しています。それからあとは、これは全く製作費との問題なんですが、さきほど言いました戦前の監督の山中貞雄をなんとか映画化したいと思っておりまして、これが来年には実現して現場に立っていられればいいなと思っていますけど。

小森 そろそろ時間になりつつあるのですが、シネ・フロントという映画雑誌の2004年ベストテンのベストワンに『父と暮せば』がなったそうです(拍手)。投票用紙のひとつを先ほどいただいたんですけども、こんな言葉がありました。「『父と暮せば』宮沢りえが素晴らしくなった。原田芳雄の慈父には涙が誘われる。われわれにとっていちばん大切なことはなにか、意識しているつもりでいつしか失いかけていた『平和』を希求する思いを呼び覚まされた」
 この方が「希求」という言葉を、さきほどの大江さんに関わらせて意識的に使われているのかどうか分かりませんが、こういう流れのなかで「希求」という言葉が出てきていることを、改めて確認したいと思います。そこにやはり9条の、いま私たちが選び直す重みがあるのではないでしょうか。
 それでは取りあえず、これで対談を終わりたいと思います。(拍手)


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