2004.11.24映画人九条の会結成集会/記念講演

「戦争とアニメ映画」

高畑 勲 (アニメーション映画監督/結成呼びかけ人)

 ここにお集まりの皆様は、おそらく全員、憲法第九条という、世界に向かって掲げた素晴らしい理想の旗を絶対に降ろすべきでない、と確信していらっしゃる方々だと思います。そして現状を憂え、イラクからの自衛隊の撤兵はもちろん、いかなる武器も輸出せず、平和憲法を維持し、その精神による、真の意味での国際協力と国際貢献を発展させることを切望しておられる方々だと思います。平和への切実な願いを込めた映画製作を着実におこなってこられた方々もいらっしゃいます。

 そういう皆様方、諸先輩方をさしおいて、この大事な集会でお話させて頂くことなど、まことに僭越至極ですが、今日上映されたのが漫画映画ですので、すこし戦争とアニメについて知っていることをお話させて頂きます。

戦時中のアニメ

 アニメーション映画は、単純で、動物などを使って寓意を込めることができます。

 1957年、発足したばかりの東映動画では『ハヌマンの新しい冒険』という、タイのアメリカ大使館から発注された作品を作ります。そして翌年には、同じアメリカ大使館からの発注で『熊と子供たち』という露骨な反共映画が作られました。原画をやらなければならなかった大塚康生さんによれば、「ソ連をあらわす大きなクマが、中国とはっきりわかるおさげ髪の少女や、タイ、フィリピン、インドネシア、それにビルマをあらわす民族衣装を着た子供たちをつぎつぎと食ってしまう」という内容だったそうです。誰も知らないところで、日本の漫画映画もアメリカの「冷たい戦争」に協力していたわけです。

 第二次大戦中、ナチスドイツでは、そういう動物を使った露骨な宣伝漫画映画を、周辺国向けに作ろうと努力したようです。そのいきさつや作品の一部が、12年前でしたか、NHKで放映されました。たしか、充分な成果を上げる前に敗北を迎えてしまったのだったと思います。

 フランスはどうかと言いますと、第二次大戦ではすぐに負けてしまいましたので、以後ドイツ占領下に置かれます。実写映画では、亡命せずにフランスにとどまった映画人たちが、『悪魔が夜来る』『天井棧敷の人々』など、たとえ自由を奪われていても、精神の自由だけは絶対に失わない、という心意気や誇りを示して、占領下のフランス人を励ましたことが有名です。タヴェルニエ監督の『レッセ・パッセ』では、当時の気骨ある映画人たちの姿が描かれています。

 アニメはどうだったでしょうか。じつは、アメリカ製のカーツーンが入って来なくなったことで、かえって国産の道が拓けた、という面白い事実があります。ポール・グリモーは、戦後に名作『小さな兵士』や『やぶにらみの暴君』、現在の『王と鳥』です、あるいは戦争や武器や新植民地主義を告発する短い作品を作った、フランスを代表するアニメーション作家ですが、この占領時代に短編アニメを数本作り、その間に実力をつけていったのです。むろん、内容は戦争とは何の関係もないものです。

 アメリカでは、戦時中、ディズニーも、かなり露骨に日本をバカにした短編を何本か作ったはずです。日本ではむろん公開されていません。面白いのは、軍務についている者たちのためだけに、「プライヴェート・スナフー」という滑稽アニメが、1942年から1945年まで、ワーナーやMGMのスタッフでかなりの本数作られたことです。スナフーという名のダメな兵隊が主人公で、ヘマばかりやる、という内容で、「面白くてためになるアニメ」というのが狙いでした。それを反面教師にしろ、ということなのでしょう。チャック・ジョーンズなど、アメリカアニメを代表するような作り手がそれにたずさわっていて、いま見てもなかなか面白く出来ています。当時、あのフランク・キャプラが大佐で、軍の映画部の責任者でした。アメリカはここでも余裕を見せています。

 で、日本。日本では戦時中、あの大藤賞の大藤信郎氏によるものをふくめ、何本かの戦争協力アニメが作られたはずです。戦後米軍に没収されたか自主的に廃棄したか、とにかくいまそれらを見ることはできないと思います。

『桃太郎・海の神兵』

 ご覧頂いた『桃太郎・海の神兵』も、アメリカに没収されたと思っていたのが松竹の倉庫で発見されて、話題になり、フィルムセンターに収められたものです。手塚治虫さんが子供の時見て感激し、アニメを志すきっかけになった、という点でも名高い作品です。これは1942年に作られた『桃太郎の海鷲』の続編で、どちらも海軍省の発注です。

 内容についてはご覧のとおりです。戦意昂揚映画のはずでしたが、出来上がったのが1945年で、東京大空襲はじめ、各地が空襲にさらされていた時期ですから、人々を励ますどころか、ろくに公開もされないまま終わってしまったのでした。

技術水準の高さ

 内容についてはあとで触れますが、この作品の技術水準の高さに驚かれたかもしれません。しかしじつは、アニメーターはほとんどがすでに徴兵され、ごく短期間で養成した新人たちがこの作品の作画を担当したのだそうです。監督は瀬尾光世氏ですが、新人を養成したのは、影絵シーンの演出と作画を担当した政岡憲三氏です。政岡さんは、1942年、名作『くもとちゅうりっぷ』を作った方で、日本漫画映画の父、と言われています。私は一度お会いしたことがあり、心から尊敬しています。アニメーション技術の理論面でも、それを具体化する方法論でも、政岡さんはじつにしっかりしたものをすでに確立しておられました。だから即席の新人養成もできたのだと思います。『桃太郎・海の神兵』は日本初の長編漫画映画です。しかし、そこでの経験や達成された技術は、戦後のどさくさもあって、私たちにストレートに受けつがれていったわけではありませんでした。もし、戦争がなかったら、日本のアニメーション映画はどのように発展していったのか、いろんなことを考えさせられます。

若者はどう見たか

 1984年、これがフィルムセンターではじめて上映されたとき、多くの若いアニメファンが押しかけました。そのために、上映回数を増やしたくらいでした。そしてギャグのところでは無邪気に笑って見ていました。私は、ひょっとしたら、この青年たちは何もわかっていないんじゃないか、とぞっとして、あとである雑誌にそういう青年たちと話し合う機会を作ってもらいました。やはり予想は的中しました。

 舞台がインドネシアだということも、インドネシアがオランダの植民地だったことも知らない。大東亜共栄圏の実態も知らない。まあそれは仕方がないのかもしれません。しかし動物たちが動物ではなくて、アジアのどこかの人々だということは分かったのに、日本軍のために働かせたり、日本語を教えたりするシーンも、ミュージカルで「明るく楽しく」描いているからあまり気にならなかった、自分も楽しんだ、って言うのです。インドネシアの人が見たらどう思うだろう、などということは、誰も考えませんでした。それから、平和な情景や兵隊さんのやさしい心が描かれているのを見て、「こういう時代だからこそ、自分の描きたい平和とかを書きたくて作ったんじゃないか」と思ったそうです。ある大学生は「作り手のそんな気持が伝わってきたからこそ、この映画をどういう目的で作ったとか、日本の侵略とかいうものを、自分はほとんど感じなかったのだと思う」と言いました。いろいろ話し合って事情が少し分かってからは、「心ある人がこういう映画を作らざるをえなかったとしたら、つらかったと思う」というような意見が出ました。どうも、あの戦争に、当時の人は賛成していなかったのだ、強制されて、心ならずも戦争に協力したんだ、と思い込んでいるらしいのです。そのときの青年たちは今ではもう40数歳になっているはずです。

反戦アニメについて

 ところで、戦争反対と平和を願う気持ちを子どもたちにもってもらおう、という狙いで作られたアニメは、かなりの本数あります。これは日本のアニメーション映画の大きな特徴のひとつです。ここにもそういうものを作った方がいらっしゃるかもしれませんし、私の『火垂るの墓』などもそういう1本と見なされているのかもしれません。その多くは、戦争末期の悲惨な体験を描きながら、もうあんなみじめな思いや経験はしたくない、させたくない、というかたちで反戦気分を共有させようとします。それは一定の成果を挙げていると思います。

 しかし私は、『火垂るの墓』を作る前も、今も、真の意味で反戦ということで言うならば、こういう映画は真の「反戦」たりえない、というか、たいして有効ではない、と思い続けてきました。戦争がどんなに悲惨かは、過去のことを振り返るまでもなく、現在、日々のテレビのニュースでも目撃できます。しかし、どの戦争も、始めるときには悲惨なことになると覚悟して始めるのではありません。アメリカにとってのヴェトナム戦争のように。今度のイラク戦争だってそうです。

 私たちみんなが考えなければならない最大の問題は、戦争を始めるまでのことなのではないでしょうか。戦争をしないで済むように国際協力を発展させ、国際間の問題を平和的に解決するための知恵と努力を持続すること、それに全力を尽くすこと、それこそが真の「反戦」だと思います。

主人公を勝たせたい

 話がそれるようですが、いまは「泣ける」映画しか大ヒットしません。悲しくて泣くのでも、可哀想で泣くのでもなく、みんな感動して泣きたがる。「泣けた」というのが映画への褒め言葉です。ですから、作り手は、主人公にうまくいってほしいとそれだけを観客が願うようにもっていければ、もうしめたものです。腕のいい作り手は、リアリティのある高い水準の映像の力で、巧みに観客を引きずり回したあげく、どうしてそんなにうまくいくのかわからないまま、上手に話を運んで大団円にもちこみます。すると、みんな何度も何度も泣いてくれます。ひたすら主人公を応援して、きもちよく感動したがっているのですから。そんなうまくいくわけがない、ということなど考えたくもないらしいのです。目覚めた知性や理性はその「感動」の前には無力です。

 もし日本が、テロ戦争とやらをふくめ、戦争に巻き込まれたならば、60年前の戦時中同様、大半の人が日本という主人公に勝ってほしいとしか願わなくなるのではないかと心配です。そして気持ちよく感動しようとして、オリンピックでメダルを取るのを応援するように、日本が世界の中で勝つのを、普通の大国として振舞うのを、みんな応援するのではないか。

 いま、戦争末期の悲惨さではなく、あの戦争の開戦時を思い出す必要があると思います。それまで懐疑的だった人々も大多数の知識人も、戦争が始まってしまった以上、あとは日本が勝つことを願うしかないじゃないか、とこぞって為政者に協力しはじめたことをです。有名人をふくめ、ほとんどの人が知性や理性を眠らせてしまい、日本に勝ってほしいとしか願わなくなっていたのです。ウソの情報を与えられて、だまされていたんだ、あるいは反対できる雰囲気ではなかったんだ、と言い訳することもできますが、それは後の祭りですし、勝ちいくさの時の情報はおおむね正しかったでしょう。私は国民学校4年生で空襲に遭い、玉音放送を聞きました。開戦当時は小さかったですから、よく分かっているとは言いませんが、少なくとも太平洋戦争を始めた頃、大多数の人々は心から戦争を支持したのだと思っています。それまでの日中戦争もそうです。あの頃の戦勝旗行列・提灯行列は、決して強制されたからやったのではなくて、みんな喜んで参加したのです。つまり大々的に応援したのです。そして酔ったように感動したのです。アジアの人々に対する優越感を国民が共有していたのです。そして戦争に反対した少数の人々は、すでに牢屋にぶち込まれていました。

歯止めがかからない

 でも、戦争は映画ではないから、うまくいくかうまくいかないかは、それを応援する願望の強さによって決まるのではなく、冷厳な現実によって決まります。そして映画の巧みな作り手とちがい、無能な為政者は、うまくもっていってくれるどころか、ずるずると負け続け、やめることもできず、結局、国民を玉砕・原爆・空襲・引揚げ・抑留などの悲惨な現実に直面させたのでした。

 やめることもできなくて、ずるずる。歯止めのかけようがなかったのです。別の意見をもっていて、方向転換を打ち出せたかもしれない少数派は牢屋の中でした。大和魂・撃ちてしやまむ・一億火の玉だ、本土決戦、神風が吹く。今からみればばかばかしいとしか思えませんが、ただただ日本に勝ってほしいという、みんなの中にあった単純な願望が、為政者のそんな非理性的な世迷い言を支えていたのです。「非国民」というのも、特高が使うだけの言葉ではありませんでした。普通の人々が、「お前、それでも日本人か。日本が負けてもいいのか。日本が勝つことを望んでいないのか。卑怯者!」という意味で、弱音を吐く連中を「非国民」と決めつけたりしていたのです。「負けてもいいのか」と詰問されて、「負けてもいい、いや、はやく降伏したほうがいいのだ」と勇気をもって言える人はほとんどいませんでした。

 あの戦時中とこれからと、どこが違うでしょうか。むろん大きく違います。しかしいまみんな、理性を眠らせて、映画を見ながらうまくいくことだけを願い、それが満たされて、感動の涙を流しています。このような精神状態は、まったく戦時中の前半とよく似ているような気がするのです。で、現実は映画とちがうから、やめることもできなくて、ずるずる。深みにはまる可能性がたいへん高いのではないでしょうか。8月のオリンピックの野球で、日本代表の負けがほぼ決定的になったとき、みんなの願望を代表して、アナウンサーは絶叫しました。「ここで絶対負けるわけにはいきません!」 そしてその絶叫の直後、負けが決まりました。こういうアナウンスも、すごく日本的で、どこの外国でも同じ、というわけではありません。

 この情けない私たちに歯止めをかけるすべはあるのでしょうか。知性や理性を眠らせないですむ方法はあるのでしょうか。

憲法第9条こそが歯止め

 そのための根本理念が、憲法第9条なのではないかと私は思います。

 あの高く掲げられた理想主義の旗。それと、これまでの日本の現実の歩みとのギャップはたしかにたいへん大きなものがあります。しかし、第9条があったからこそ、戦後の日本はアメリカに従属していたにもかかわらず戦争に巻き込まれないで済んだし、また、過去に侵略したアジアの国々との関係で過度の緊張が生まれなかったのだ、という事実を、しっかり認識し直すべきだと思います。また、この理想と現実の相剋があるからこそ、多くの人々の知性は目覚め続けざるをえなかったし、ずるずるいかないための大きな歯止めになってきたのではないでしょうか。理想と現実の相剋を理想を捨て去ることによって解決しようとすることほど愚かなことはありません。この大きな歯止めをはずせば、あとはただ最低の現実主義で悪い方へずるずるいく危険性がまことに高いと思います。歯止めをかける能力は、今のひどい、最低のアメリカよりも、日本国民はさらにもっと低いのではないか。民主主義、意見の違いを許す度量、あるいは人と違うことをする人間を認める度量、そのどれをとっても、歴史的に異分子を排除する、全員一致主義をとってきた日本の方が、アメリカよりずっと劣っているのではないでしょうか。集団主義をとってきた私たちは、残念ながら、歯止めがかからなくて、ずるずる行きやすい体質をもっているのです。若い人たちは違うと思いたいのですが、どうも全然変わっていないとしか思えません。

 第9条がなくなったらどうなる可能性が高いのか、それを、憲法と現実との整合性を求め、現実に合わせるべきだと思っている人々にも、絶対に考えてもらいたいと思い、宮沢喜一元首相と同じくらい、かなり生ぬるい意見を述べました。

 ともかく、いまこそ憲法第9条を高く掲げ、その精神にのっとった外交と真の国際貢献・国際協力をすすめるべきときではないでしょうか。

 ありがとうございました。(拍手)


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